和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

片岡行雄さんに学ぶ       〜名工に学ぶ・2〜

    
   〜名工に学ぶ〜第2弾として
       今回は京人形師・片岡行雄さんの工房を訪ねた。



勿論一介の私ごときでは中々見せてもらえるはずもない。前回の織師・和泉博山さんからご紹介いただき仲介の労を取っていただいたのだ。
約束の時間より早く着いた。ショーウインドウの中を覗いていると一人の老婦人が横に来なさった。



人形の写真を撮る私のカメラに期せずして私とそのご婦人の影が映った。
足が悪く杖をついていなさる。私と同じ足が悪いようだ。

そしてその方は私に・・・
「何時見てもここの人形は別格。私はここのを見たら余所さんのはよう見れんの・・」と。

その方のこのお店の人形との思い出を聞きながら旧知のように暫し、話す。
色々にぎやかに会話をかわす私たちの声で家の中から軽快に出て来てくださった方がある。
気さくに話されるその男性がその日尋ねるはずの片岡先生だった。
年齢を事前にお聞きしていたのだが私と20歳年上には到底見えぬ身のこなしと若々しい話ぶり。
しかも実に気さくな人柄にドキドキと緊張していた私もほっとする。

あれこれと自己紹介する間もなく和泉博山先生と変幻自在の爺さんことInuwanさんと合流。
そう・・・この日和泉先生も同席してくださるためはるばる亀岡から出て来てくださったのだ。
私は知り合う方々が物凄く良い方々ばかりなので本当に感謝しないといけない。
中々金沢の田舎からひょっと来て「工房見学させてください。」「話を聞かせてください」などと言っても実現するはずもない。いろんなお店や工房で丁寧過ぎるお断りを頂く憂き目に何度遭遇してきたことか・・・。思い木端微塵になり電車にうなだれて乗ったことが何度あったことか・・・。(笑)

ちょっと前置きが長く成ったが今回は京人形を皆さんに堪能して頂きましょう。
私の解説など不要・・・・写真が如実に語ってくれるはず。ちょっと私の腕では綺麗に写っていないのもあるのだが、そこはそれ・・・各人の想像力という力を最大限に発揮してくだされ。


         【京人形司・片岡行雄氏に学ぶ】


京人形の顔は型に石灰岩を流し込み顔の形を作ることから始まるのだが、それだと案外似た顔ができる。
で、この片岡先生は勿論そう言ったものも使うのだが、自分で桐の木を削り気に言ったものを作られる。

丁度「利休にたずねよ」の書のなかにも同じような記載があった。
利休は自分の焼いてほしい茶碗の話を職人にする。
「手に吸いつくような茶碗を」と。
とその職人が言う・・
「うちは轆轤(ろくろ)がありません」と。
轆轤は幾つも同じようなものを作る時のもの。私は一つ気にいったものをつくりたいだけなので轆轤は不要」と。
もっとも出来上がった茶碗に対して気に入らず作り直ししてもらう。
自信満々だった職人は「何処が気に入らぬのですか」と怒って聞く。
一言・・・・「この茶碗は手に媚びている」と。

話がそれていくので、戻す。
ただ片岡先生の話を聞いているとまさに利休のその場面が浮かんできたのだ。
自分の作りたいものを作るのであって、「買い手に媚びるものを作るのではない」という毅然とした思いが静かで穏やかな口調の中からもひしひしと伝わってくるからだ。



型をとった顔より自分で好きな顔を・・と片岡先生は彫刻刀たった一本で削って行くとか。


まずは桐の木を用意・・


削った木に筆で一刷毛一刷毛胡粉を塗っていき手や足や顔を作って行く。
全て手作りなので同じ表情は一つとしてない。

簡単に私は書くが実際は大変なことだと想像できる。
私の友人で観音様を彫る方がいる。
足の指だけ彫り続けて五年・・・
手の指だけ彫り続けて五年・・・
全体を彫るのに更に十年・・・
二十年たってもやっと顔を彫らせてもらえる・・・と言うのが普通の事なのだそうだ。

勿論片岡先生は型に流し込んだ顔も使われる。
でも段々年齢とともに自分の好きなものを作ろうとした時に全部自分でした方が楽しくえも言われぬ一時になるようである。
嬉しそうに語られるその表情から分かる。

作られた手をとても優しくいつくしんで持たれているようにさえ見えるから不思議。
先生の手と人形の手には微かな隙間さえ感じ取れるのは私一人ではないはず。


そして次は衣装・・・
さまざまな裂(きれ)が保存されているのだがそのなかから自分のイメージ通りの物を選ぶ。

そして和裁で着物を縫うのは奥様の仕事。
実に美しく丁寧である。
「きせ」をかけるのも、「ふき」をとるのも素晴らしく美しい。
体の内側と外側との微妙なバランスと重なり具合・・


人形の着物は小さい分、とても精密で緻密な縫いを施さなければいけない。
子供用の着物ですら大人用より難しいと言われる所以。
かつて子供用の縦横三分の一の縮尺の着物を縫う方の物差しを見たことがある。
それはちょっとの違いでも美しく仕上げられないので特別に三分の一の縮尺用の尺さしを業者に別注して作ってもらったと言う話も聞いたことがある。勿論特注だし、小さくて精密でないといけないので物凄い費用を要したと。その費用を聞いて卒倒しそうなほど驚いたことがある。つまりそれはそれほど精密なものは難しいと言うことでもあるのだ。そしてそういう物がないと実に大変な作業だとも言えるのだ。

どんなものも聞いたり見たりするのは簡単に思うのだが、実際される方は物凄い労力と神経を使われて工夫されているのだ。それを知るだけでも凄い勉強をさせていただいた。

片岡先生が全て自分で作られた人形をここでお見せしましょう。許可をいただいたので。
ケース越しなのでガラスにフラッシュが反射してちょっと見えづらい所はご勘弁を。

汗で髪が塗れている質感まで工夫がされていてとっても楽しい。
この髪の一本一本自分で和紙を髪の細さに切り一本一本染めて作りましたよ・・・と楽しそうに言われた。

「利休道歌」の中に
「規矩作法守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」という一文がある。

規矩(きく)というのは
「規」はコンパスのこと、「矩」は物差しの事で「規矩」は規則のこととも言える。
「守・破・離」についての一文。
「守」は基本、「破」は応用、「離」は独自性と独創性と解釈されるのが一般的とか。
何十年もの京人形制作の中で守られた基本と試みられた応用を踏まえて片岡先生は独自性と独創性の領域に入られているのだろうと思いながらお話を聞いていた私である。
世阿弥風姿花伝の解説書も読んだ時にも同じような記載があったように思う。
基本がキチンとなされているからこそそれを破っても形は美しい・・というような件(くだり)だったと思う。

以前和泉博山先生の工房でも感じたことであるがまさに突き抜けた方と言うのは実におおらかで何処までも達観されているのが印象深い。
そのくせ誠実で真面目でキチンとした仕事を黙々とされているのが伝わってくる。


ところで、片岡先生はこんな方・・・後ろの方は奥様・・・


奥座敷には・・・


二間続きで圧倒されるほどの数々。
いずれ劣らぬ素晴らしい京人形。
「いつもこんな風に展示されているのですか?」と驚いて聞くと
「いやいや、今日の日の為に出しましたよ、家内と二人で・・・」と。
本当に感謝です。平身低頭心から御礼申し上げます。

滅多にこれだけの京人形を一望できる時はないと思うのでこの機会に皆さんにご披露しますね。ご堪能くだされ。
片岡先生の作品もあれば、今は亡きお父様の作品も・・・
素晴らしい逸品なのに私のカメラ技術が付いて行っていないのが申し訳ない。
ガラス越しであったり、逆光であったり、少しピントの合わないのはご容赦を。
四月の私のブログ写真容量を超えてもいいので一枚でも多くお見せできたら・・・という思いで。

















♦♫◇♦・*:..。♦♫◇♦*゜¨゜゜・*:..。♦ ♦♫◇♦・*:..。♦♫◇♦*¨゜゜・*:..。♦        


今回、私のブログでアップするのが良いのか、悪いのかはわからない。
アップしたために片岡先生にご迷惑をかけても・・・と随分心配もした。
でも先生は京人形の今後の事を考えた時、ちょっとでも、そして少しでも皆さんに分かっていただけたらこんな嬉しいことはないとおっしゃられた。
田を耕すことが良い作物を作ることに必要なように、文化も耕さなくてはいけない、と。人が人を愛することが大切であるように、母が子を愛することは人類普遍の原理でもあるはず。人形制作を通してそういう思いを少しでも発信していけたら・・・と熱く語られた。人形という形を通して人間社会に平和の実現をアピールできたらこんな素晴らしいことはない・・と。

京都とはこんな素晴らしい物づくりに携わる方が一杯いらっしゃるに違いない。
厚みのある長い歴史がこういう主張をしっかり持った方々をしっかり支えているのであろう・・と。
和泉さんしかり・・・片岡さんしかり・・・

こう言う方々と知り合え、啓発していただけるわが身を心底有難く感謝した私でした。
元をただせば変幻さんのご紹介。
お三方にこの場をかりまして心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。








上の写真の鳥は多分・・・ウグイス。
この日の朝京都に向かう私を素晴らしい声で見送ってくれていた。



・・・・いつか・・・・名工に学ぶ・3・・・
企画しますね。そして皆さんにご報告できる日をお待ちくだされ。
ただ私はもう少しデジカメを使いこなせないと駄目ですね。
勉強します。お待ちあれ〜♪