2022年の演奏会も済み、最近はきもの検定講座にいそしんでいた。
これが琵琶からの気分転換に気持ち良かった。
つい最近では「絣」の話。
絣・・・と言えば、何年か前に京都へ行って最後の絣職人と言われている徳永弘先生に絣の話を伺った時の話を皆にした。 その夜、懐かしくなって自分で自分のブログ記事を読み直してみていた。
自戒
つらいことが多いのは
感謝をしらないからだ
苦しいことが多いのは
自分に甘えがあるからだ
悲しいことが多いのは
自分のことしか分からないからだ
心配することが多いのは
今をけんめいに生きていないからだ
行きづまりが多いのは
自分が裸になれないからだ
徳永さんの仕事場に書かれていた言葉だ。
当時でもかなりの年齢だったように思う。
矍鑠と仕事をこなし、何か質問するたびに眼光鋭く切り返して話してくださる姿に全く年齢を感じる事はなかったのだが、この仕事場の言葉は胸に迫った。
黙々と仕事をこなしている姿とは別に、内面との厳しい自省を常に持ちその年齢まで黙々と仕事をされ生きてこられたのだと思うと一つ一つの言葉が胸に刺さった。
私はまだまだ甘い・・・
演奏会が済んで体調不良も続く中、ついつい甘えたことばかり言ってのらりくらりと過ごしていた自分が頗る恥ずかしい。
あの人に腹を立て・・・
この人に恨み言を言い… ・・・
そして何より自分自身の不甲斐なさに嫌悪し・・・
自分自身の浅はかさと愚かしさを呪い・・・
あ~・・・ぁ、私ってなんて嫌な人間。 サイテー・・・!!!
徳永先生が気づかせてくださった。
全ては自分自身の不徳さが招いた事。
徳永弘先生だけでなく、和泉博山先生や、片岡行雄先生の工房へお邪魔し、一つ一つ習ったことは着物の工程であった。工程ではあったのだが…でも実際はそういうものを通して人としての生き方に感銘を受けたのではないか、と思う。多分その人の人となりが私を感動させ、更に更に、もっともっといろんな方に出会いたい、と突き動かしていたのではないか、と思うのである。
あ・・・ぁ・・京都に行きたい。
そして着物の工程をみながら、その方の生き様を肌で感じてきたい。
少し感染が収まったら、やはり行ってこよう。
この身体の中の澱のように溜まったものは、多分人への感動に飢えているからだ。
ただひたすら地道に自分の仕事に邁進する真摯で一直な姿に恋焦がれているからだ。
京都に行ってこよう。
多分私は人の色んな欲に疲れ切っているのだ。
「損だ!得だ!」そんなことばかり言って生きている人はどうでもいい。
ひたすら一生懸命生きている名工たちに会いたいだけだ。
着物の世界はどこまでも深い。
どこまでやってもきりがない。
ここまで頑張った、と一息つく。
ふと周りを見渡せば、なんとまだ私はスタート地点にも至っていない。
でも心惹かれるこの気持ちはなんだろう。
今まで着物の世界を私は追い求めたと思っていたら、必ずしもそうではないことに今回気がついた。私は人が好きなんだと。
着物の世界に携わる職人さんたちが何とも魅力的に見えるのだ。
あの京都の町家の狭い空間の中で延々と同じ作業を繰り返しながら気の遠くなるような細かく緻密な作業を繰り返していく。一攫千金もなければ、地位や名声もない。その人生に脚光を浴びることなどまずないといってもいいだろう。ただひたすら自分の仕事だと自分に言い聞かせながら丁寧で実直に仕事をこなす。自分自身の哲学を持ちながら完全分業の中で自分の仕事を確実にこなしていく。その中で自分の拘りやプライドを持って小さな工夫や地道な努力をし、コツコツと日々生きていく。多分私はそういう方々に物凄く魅力を感じ、敬意を持ち、そして憧れているに違いない。
京都へ行こう。
またそんな方に会ってこよう。
そして自分の生き方を少し修正しよう。
私は人の思惑に疲れ切っているに違いない。