和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

中学時代〜♪

はてなのブログを始めてから知らない方からのメール&電話などを偶にだが頂くようになった。
中でも「老犬武蔵」、「極真空手」、「新聞配達」、「小学生時代」、「母の事」のことはよく読んでくださるようだ。教室に来られる生徒さんのお母さんなどが毎日更新を待っていてくださるというのもある。有難い。きっと世代が似ているのに違いない。また有難いことに私のブログを読んで「琵琶」に入会してくださった奇特な方もいる。琵琶の先生からは「あなたは一体ブログに何を書いているのか?」と言われてしまった。は・は・は・・・色々・・・すんません、「気をつけよう、暗い夜道とブログの内容」・・

今日は中学時代の事を書こうと思う。
小学時代の石川先生の反響が大きかったこともあり、そんな風な自由な小学生時代で果たして中学時代はやっていけたのか・・・とその方との話があったのが伏線。鋭い・・・で、その時に約束した。暇な時間を見つけて中学時代を書くからね・・・と。

で・・・今日は仕事が休みなので書くことにする。
話の流れで軽いのりでした約束でも守らないと気が済まない。
いつもながら私の話は行きつ戻りつ・・・中々進まないので
ざっと読むことを済ませたい方はスルーしていってくだされ。
じっくり腰を据えて読むほどのもんやないので。(笑)

  
          「ガ・ハ・ハ・作戦」




以前書いたように私は廃校寸前の僻地に近い小学校に通っていた。
隣接する中学校は既に廃校になり大きな中学校に統合されていた。
当然私たちクラスの40余名も小学校を卒業し大きな中学校に通うことになった。
その中学校は450名を超えていたように思う。10クラスか11クラスの中学校であったように記憶している。
入学と同時に学力テストなるものを四月に実施。
ところがなんとテストの結果は惨憺たるもの。
その中学校では100番まで氏名を教室の後ろに貼り出すのである。
番数、得点、名前、そしてあろうことか出身小学校。
100番までに私たちは1人として入るどころか最後の400番前後にたむろしていたようだ。
職員室でも話題になったようで生徒の間にも父兄の間にもあっという間に広がってしまった。
「すごい先生がいたとか聞いたけど大したことないね」とか
「遊んでばかりで生徒の機嫌とっているからこんな無様なことになる」とか
これはある先生同士が話していた言葉だが
「出来の悪い小学校はこの中学校には入ってきてほしくないね」と。

今は知らぬ。しかし当時のその中学校は素晴らしく優秀で100番以内にいれば県内の進学校三つには確実に入れると言われていたほど有名であったようだ。
教室に貼りだされた紙の100番に入ることが良い高校進学への必須条件のようになっていたようだ。
私たちの小学校は思いやりや助け合い、譲り合いや労わり合いを大切に教えてくださったその先生のおかげで本当に楽しく過ごすことができたのだが、確かに学力の点、他人と競うという点、恐ろしく遅れていたのだ。その中学校の横にある小学校では既にエリートクラスが一クラス作られていたらしくそのクラスにいた人たちは上位30番を占めていた。廃校寸前の小学校のしかも出来の悪い私たちは口もきいてもらえぬ、というより対等と見てももらえぬ状態だったように思う。ひがみだったかもしれぬ。

中学校入学の四月の時点で英語の教科書をすらすら読む人の傍らで私たちはアルファベットすらまだろくに書くことも読むこともできない状態だったのだからその差はすさまじく大きかったのだ。ピアノや笛で楽々楽譜を吹く人たちとは裏腹、私たちは楽譜すら読むことを知らなかったのだから。
まざまざとその差を見せつけられ、しかも私たちが大切に思っている先生までもが悪く言われるのを聞いて私は内心不快感と無力感、挫折感で一杯だった。

なんとかせねば・・どうすればいい・・
どこからどう手をつけてよいのかすらわからなかった。
一時間以上かかる自転車での帰り道・・私は決心していた。
100番内に入ればいいことだ。
いや、あのエリートの人たちをしのぐためにも少なくても30番に入って自分の名前を見せつけないといけないのだ。
私たちとてやればできるのだと。

いつか・・・いつか・・・
あの張り出される紙の前で、
「両足を肩幅に開き、両手は腰に置き、教室の天井を向いて、高らかに笑うのだ・・ガハハ・・と。どうだ・・・と。」
で、その日から名づけて「静かなるガ・ハ・ハ作戦」を遂行するための作戦を秘かに立てた。

まず勉強する部屋がいる。そんなもの有るわけがない。
で、家の天井裏に部屋をつくることにした。
勿論天井裏なので天井は斜めになっているので狭い。低い。立って歩ける所はない。
窓は嵌め殺しで開かない。埃だらけ。勿論不要なもので満杯。梯子をかけての上り下り。
その日から片付けだす。1人でするのだ。何としてもやるのだ。
所詮自分の頭で考える事、できないわけがない。
そうして鉄兜、サーベル、軍服、に始まり古本、雑誌、硝子戸、10センチはあろうかという埃を振り払って自分の部屋としての空間を作って行った。三畳になろうか・・・立派な(笑)私だけの部屋である。
勿論電気などない。たこあし配線でコードをつなぐ。畳がないので古い毛布を絨毯代わりに敷く。布団を敷けるようにまでなる。襖も戸もないので冷たい風が階下から吹き上げてくる。冬はどこまでも寒く、夏はどこまでも暑い。一日中暗いがどちらにしても夜しか使わないのだ。所詮、家の中さあ〜と思う。いや、思うようにしただけ。大望の前にはどんなことも所詮小さなこと。
最後まで苦労したのが梯子の上り下り。
夜中ついいつもの癖でそのまま歩こうとしてしまう。まっさかさまに下に落ちる。
トイレへ行こうとして何度か足を踏み外すと言う失態もする。

まだそのころは朝の新聞配達も牛乳配達もしていた。
週二回の牛乳配達の日には三時起床、毎日の新聞配達の日には四時起床。
二時間半はかかる配達時間に単語を10個覚えよう。
一日10個なら一年間で3650個だ。
学校行く自転車通学一時間で社会の年代10個覚えよう。
学校帰りの一時間は漢字、熟語を10個覚えよう。
とにかく一歩一歩だ。何事も一足飛びはないのだ。
その日から私の静かなる「ガハハ作戦」がひたひたと始まった。
なにせ皆、塾だ、家庭教師だ、問題集だ、教材だと言っている時に
私は田んぼや畑や食事や風呂焚き、子守りをやらないといけないのだ。
いや、私だけではない。私たちの部落の子たちは皆そうやって家の手伝いをしていたのだ。例外はないのだ。親が公務員だとか、サラリーマンだとか、会社経営者とか、定期にお金の入ってくる家の子たちとは違い、私の部落は農家と漁師。農家や漁師は収入が不定期。それも天候次第。まして学歴は不要だったのだから当然勉強時間などにも理解はなかった。しかも子供は多い。理解してくれという方が無理なのだ。

ただ黙々と、粛々と、諦めないで「ガハハ作戦」は続けられた。

中学1年生を終える頃にはいつも100番の中に自分の名前がはいるようになった。なんと私のほかに同じ小学校の三人の名前を見つけた。皆考える事は一緒なのだ。1人ではないのだ。2年生を終えるころには30番の中には入るようになり、3年生の夏休み前の試験ではなんと10番台にまで上がった。

「肩幅に両足を開き、両手は腰に置き、教室の天井を向いて、高らかに笑うのだ・・ガハハ・・」と笑ったかというと正直悔しさだけが残った。1桁に食い込みたかったのに中々10番の壁は厚かった。

「一桁ガハハ作戦」は高校に持ち込もう・・と高校にやってもらえるかもわからないくせに勝手に決めていた・・・
1人気を吐いていた(笑)

そして嬉しいことに2番目の姉ちゃんが嫁にいって姉ちゃんの部屋が空き私は、夏の何処までも暑い、冬の何処までも寒い、すさまじい屋根裏生活を満喫しなくてよくなったのだ。

人知れず石川先生は再婚し、障害児教育に益々熱心に打ち込んでいると風の寄りに聞く。仕事に行く時、寝たきりの子供に後ろ髪引かれながら仕事に行っていた先生の辛さを思い私たちは喜んだ。亡くなられた奥さんにいつも自分の責任を感じ、時々悲しい目で遠くを見ている先生の心の中の寂しさを私たちは自分の事のように辛かった。新しい奥さんと新しい生活が始まったことに何だか自分たちの毎日までが光さす日になったように思えたものだ。

        こんめぇ 馬だちゅうて 馬鹿にすんでねえやぁ〜

        今に見ろ でかくなって 野原を駆けるだどぉ〜♪

私たちの小学校の生徒はアルファベットどころか音符もろくに読めなかった。
中学校で先生を始め、他の小学校から来た子たちからもからかわれた。
小学校で一体何を習ったのかと・・・。
この歌だけが大きな声で歌った記憶がある。

皆、恐ろしく貧乏だったのだ。
家にお父さんやお母さんがいる子はまだよかった。
爺ちゃんや婆ちゃんと暮らしている子もいた。
お父さんやお母さんが病気で寝たきりの子もいた。
子供が母親のご飯を用意していた子もいた。
弟や妹をおんぶしてくる子もいた。

生きる事で精一杯だった。
だから学校で過ごせる時間が有難かった。
街から来た先生には理解できぬが石川先生は分かってくれた。
かあちゃんの容体が悪い子が学校に何日もこれないときは皆で家庭訪問と称してその子の家まで行った。
下の弟や妹に食べるものがない時、そっと給食のパンを残す子に皆で少しずつカンパした。
稲刈りのあとの手伝いで学校に来られない子の田んぼに皆で行って手伝った。

私たちには勉強よりも大事にしないといけないものがあると
分かってくれた先生だった。

       もずが枯れ木で啼いている
       おいらは藁をたたいてる
       綿引車はおばあさん・・・〜・・
       コットン水車も回ってる
       
       みんな去年と同じだよ〜
       けれども足んねえものがある

       あんさは満州へいっただよ
       鉄砲が涙で光っただ〜
  
       もずよ寒いと啼くがいい
       あんさはもっと寒いだろう

反戦の歌ではないと思っている。
離れ離れにならざるを得ない家族の辛さを歌った歌だと理解している。
貧しくても苦しくても、家族が一緒に暮らせる幸せを教えてくれた歌だと思っている。
先生から音楽の授業で習った歌で思い出深いのが、「こんめえ馬」と「もずが枯れ木で」とこの二曲
中学校の時も沢山色々な歌を習いはしたがこの二曲に勝る歌はまだない。。。

今日の金沢、快晴・・
たまにはこんな日もないとね・・・・

お付き合いくださりありがと。
楽しかったわあ〜・・
書きながら私達ほど心豊かな小学校生活を送ったものはいなかったかも、と。
きっと小学校生活が、私のその後の人生を支えてきたのかも・・・なんて思いながら書いていましたよ。


    小学校の時の皆とつながっている気がして・・
           ありがとう・・小学校の時のみんな。
           ありがとう・・今は亡き石川敬信先生。

    最後まで読んでくださった方々・・・ありがとう〜♪