和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

稲刈りの思いで

稲の刈り取りや田んぼの様子などを見るにつけとっても懐かしい〜♪
ついつい当時を思い出しながら感傷に浸る私である。
で・・・着物の話題にも多少飽きたこともあり、今回は稲刈りの思い出を書く。


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私の生まれた家は祖父が漁師、父は農家、母は内職の和裁の仕立てをしていたことは折りに触れこのブログで書いてきた。小学校・中学校の時は稲刈りは皆手で刈っていた、高校生あたりからバインダーとなった・・はず。コンバインを使いだしたのはかなり後・・二十代と記憶している。
多分全て手で刈る時のことなど余り知らないだろう。
知っていても自分でやったことのある方はまれだろう。

と、いうわけで今日は小学校の時の稲刈りの話。
今から何と五十年前の話である。

小さな時から田に入り家の手伝いをするのは当時の子供達としては当たり前のこと。
夏のお盆が過ぎたら直ぐ稲刈りに取りかかる。早く刈り取りをした田には白菜やキャベツ、大根など冬野菜を植えないといけない。ぼやぼやしていると雪で冬野菜の収穫ができなくなる。収穫が出来ないと冬生活していけない。冬野菜を売って現金収入にしていたのだから。

子供たちと言えどお盆が過ぎたら毎日田に駆り出される。
田に入れないような小さな子は子守りをしたり、畑の水やりをしたり、食事の用意をしたり・・すべきことは山のようにあった。それでも田んぼの稲刈りは何をおいても最重要事項である。九月になって台風がきたら大変、収穫が減るので死活問題となる。春の田植えの時期から八月の稲刈り時期を想定しての仕事となる。と、いっても稲刈りを八月中に済ませ、九月は刈った稲を干したり、積んだり、そして家に入れ脱穀、籾摺りとなるので稲刈りが済んでも仕事は続くのだが、天気任せの稲刈りなのでいつも余裕を持って済ませておかないと大変なことになるのである。稲の生育状況に寄り御近所でお互いに手伝うのは当たり前。来てもらったり、手が空いていれば手伝いにいったり。村でも大地主ともなれば能登から何人もの出稼ぎの人達を雇ったのだが、ご近所さんではお金のやり取りはほとんどなく人夫としての調整の仕方だったに違いない。

私たち子供は夏休みの宿題をお盆までに終わらさないといけない。何処の家も一緒である。
お盆のお客さんの喧騒や従兄弟たちと遊べる楽しさが一転毎日田んぼへの往復となる。
朝明るくなると同時に、そう四時にはもう母も父も姉たちも家にはいなかった。
六時過ぎに一旦帰ってきて朝ご飯を食べて今度は小さな子もひきつれて田へ行くのだ。

田では横一列に並ぶ。
各自一斉に刈り出す。
大抵は上手な人、早い人が先に並ぶ。後は段々と・・・一番遅い人は最後に並ぶ。
後ろから来た人が前の人を追い抜くとそこで二人は場所を入れ替わる。
前に遅い人がいると中々進まないので選手交代となる。
私は一番最後に刈る。一番小さかったので・・。
田の一番向こう端まで行くと最初に戻り又刈る。
私の後ろには早い人が追いかけてくるという形である。
遅いと邪魔なだけでなく何度も変わらされて最後まで中々たどり着けぬこととなるのだ。大きな田が一枚済む頃、まだ私は端につけない・・というのも決して珍しくないのだ。何せ小学校二年、三年でも当然のように駆り出された。
でも毎年の事なので小さいながら必死である。必死だからこそ、段々仕事にも慣れてくるのである。鎌を持たせるのが危ないような小さな子には稲穂の落ちたものを拾わせる。おかげで大人たちが田を一枚終えるころには小さな両手一杯の稲穂を拾うことができるのだ。一筋だって無駄にできぬことは小さいながら身体に浸み込みこんでいる。

担当する持ち株としては大人は五列五株である。
私は子供だったので低学年で三列、中学年で四株。小学高学年では五株。大体が皆そんな感じであった。
小学校の低学年なら指に三株は持てないので左の親指と人差し指に二株、人差し指と中指に一株。中学年ならどちらも二株づつとなる。高学年になって少し慣れると大人と同じ五株となった。親指と人差し指に三株、人差し指と中指に一株、中指と薬指に一株・・となる。指の長さが短いと一挙に持つなどと中々できないので色々工夫するのだ。
全部の指を手いっぱい広げてそして力を入れて持つ・・・
スピードもかなり早くなり何とか前の人にかろうじて付いていけるような形にはなっていた。
手に持った株を何処にでも置くのではない。必ず前の人が切った切り株の上にそろえて置くのだ。そうすると切り株があるので刈って置いた稲下に風が通るのだ。

一晩切り株の上に置かれた稲と、地面の上に置かれた稲とは乾き方に雲泥の差ができる。次の日には又一列になり今度は藁で稲を縛って行くのだ。渇きが悪いと重くて太い稲を縛らないといけない。勿論縛りにくいし体力も使うし時間もかかる。何より乾くと縛った稲の間に隙間ができ、ゆるむと言うことになる。だから稲を刈る時は五センチ〜十センチは地面から離して刈るのだ。それはその日の田の湿り具合で決める。湿っていたら十センチは空けて残して刈るのだ。ただとにかく刈ればいいのではない。漠然と適当にすると・・後日・・
「誰や、ここを刈った者は!!」となる。
株の切り口は右から左下に若干斜めに入るのが良い。
刈った稲と刈られた株の接点が最小になるので稲は乾きやすく成るのだ。
それが又、自分の手にも安全なのである。

はっきりは記憶にないのだが、多分四年生か五年生位になるとちょっと一人前。
大人と遜色なく(ちょいと大げさ。自分だけの思い込み)とまではいかなくても、スピードも仕事もかなりできるようになっていた。
とはいえ、所詮小学生。トロイのは勿論である。
三歳上の姉は家族の洗濯物。を担当。これが物凄く多いのだ。朝前仕事、午前中、午後と汗をかき、家族中が替える服の数だけでも大変なのだ。しかも今のようにスイッチ一つで脱水までしてくれるのとはわけが違う。一つ一つ手作業。ローラーの付いた洗濯機で何度も何度も作業がある。洗濯物を干す、前に干したものを取りこむ。その合間を縫って海岸近くの砂畑に水をかけに行くのだ。砂浜の畑にはサツマイモだの瓜だの豆だのが植えてあるので。畑に水をかけ、帰りに畑で野菜を取り夕飯の支度をする、その隙間をぬって風呂を焚く。勿論昔は五衛門風呂なので常に火の加減を見ながらの炊事となる。でも物凄く段取り良くやれば少し本を読む時間を捻出できなくもない。そんな時はとてもラッキーである。その日は畑へ水をかけに行ったら草をむしって来て・・と姉は言われたらしくその日は読書を断念せざるを得なかったのでちょっと機嫌も悪かったと記憶している。

とにかく私は父、母、他の姉、それにいつも助け合っているご近所の女の人たちと共に田に出ていた。二番目の姉が実に早い。田植えをしても稲刈りをしても。近所の人たちは手が足りないとその姉に応援を頼んでいていつも引っ張りだこだった。
いつか・・・何時か私もあんな風に格好良く刈りたいとも子供心に思っていたものだ。そして皆に一番忙しい時に頼りにされるようになりたい、と。


     そして・・・運命の日・・・・(笑)・・大げさ〜♪。

私は9歳か10歳の時なので姉はその時15〜6才のはず。
よーいドン〜さながら稲刈りが始まるはずが、天気の良い日が続くので一人一枚の田を担当しようと言うことになった。大人が普通に刈って200歩の土地を手で刈ると一日あればなんとか刈ることができるのだ。一人一枚なら五人いたら五枚終わる予定だ。後ろからの人に追い立てられずともマイペースで出来る。「じゃあそうしよう」となった。
近所の人も三〜四人かいた気がするが定かではない。手伝いに来てもらえばその家の稲刈りの時に誰かが又手伝いに行くのだ。

父がオート三輪(なつかしい・・・良くエンストしたりエンジンがかからなかったものだ)に皆を乗せ、年齢や経験を考慮して妥当と思う各人を各田に下ろす。
私の姉は上手なのでちょっと皆より広い田に下された。
私は小学生と言うこともあり160か170歩のちょっと小さい田になった。
ただ三角の田なのでちょっと刈りにくい。家から一番近い田だ。一枚か二枚離れて姉がいた。姉に手を振る。

一人一枚の田、マイペースといえど自分の割り当てられた仕事がその日に済まないとちょっと恥ずかしい。近所の人たちも何年もしくは何十年やってきた農家の嫁としてのプライドもあろう。皆の前で「私はまだまだ下手くそです」と知れ渡るのは何としても避けなければ。皆平然と装ってはいるが思う事は一緒。更に刈るのは早くてもキチンと次の仕事がしやすいように出来ていないと後日誰の仕事がどうなのかが一目瞭然。田を刈るのが早くても仕事が汚いしねぇ〜なんて言われかねない。15か6才の姉が一番大きな田をするのだ・・・大人たちは負けられないはず。しかも始める前から姉が一番最初にやり遂げるだろう・・・と皆思っていた。せめて二番に・・・せめて三番目にははいりたい・・・と。腰の曲がった近所のばあちゃんもお嫁に来て何年か経つ若い姐さんも・・・ニコニコ笑ってはいるが、ちょっといつもと違うやり方にぴりぴりしているのが分かる。

私はと言えば、すぐ始めた。小学生と言えど馬鹿にされたくない。
「おーっ!!」とまでは言われなくてもせめて最後に皆に手伝ってもらわなくてもいいような速さで終わりたい。
物凄く順調に行く。私も大したもんだ・・・小学生ながら大人に交じりやるじゃあないか・・と。
調子に乗りたがるのは今も昔も一緒。

親指と人差し指の間に三株持つ、これが案外オタオタする。まだそこまでは指は長くない。人差し指と中指に一株、中指と薬指の間に一株と。どう考えても親指と人差し指の間に三株はきつい、二株が妥当。そうすると本来使わない薬指と小指の間に一株持たないといけない。それがちょっともたつく。じゃあ全部で四列、四株で行ったらどうかと思われるかもしれない。そうすると
稲を干す時も(ハサ掛けではなくてにょといって円形に積んだり干したりするのである)とてもやりにくい。まして脱穀する時に五株と四株が混ざることにもなる。で、結局五株に合わせると三列や四列で進む人は五株ひと山になるように刈る時に「一、二、三、四、五」と調整しないといけない。刈る列と束にする数が違うので、数えながらやるので案外時間がかかるのだ。

私はその日、五列もっていこう・・と最初から決めていた。物凄く順調だった。昼に父がオート三輪で皆を荷台に乗せ集めて回った。家で昼を食べ早々に午後の部となる。誰も負けられないのだ。ゆっくり休むのは稲を刈ってからである。夜になる前に少しでも稲を干すために。昼ご飯もそこそこに午後の部となる。
午後何とかこの調子なら皆の終わる時間に終わりそう、そんな目途を立てていたその時・・・・その時指が氷に触ったような冷やっとなる。最初は何が起こったか分からなかった。作業を続けた。左手の動きがちょっと悪い。思うように動かない。そのうち手がぬるぬるしだした。左手を見る。そして何が起こったか理解した。鎌で左手の小指の第二関節から薬指の爪を斜めにバッサリ切ったのだ。薬指の爪は真っ二つに割れ小指に至っては骨が見える。頭が真っ白になった。あぜ道のむこう側に湧水がある。そこまで走る。手を洗う。頭に巻いた手ぬぐいで傷口を抑える。抑えても抑えても血は出てくる。指先が大きく脈を打っている。痛くて手を下におろせない。体中の血が流れ落ちる、とさえ思える。どうしよう・・・迷う。長い時間だったかもしれぬ・・瞬時だったかもしれぬ。離れている姉の稲を刈る姿はリズミカルに動いている。姉の仕事まで中断させられぬ。手ぬぐいはみるみる真っ赤になり見ているだけで気持ち悪くなり倒れそうな気分になる。

鎌を畦の上の分かりやすい所に置き、家に走って帰る。(適当に置くと後で田んぼ中探さないと見つからない・・笑・・)
家に飛びこむなり薬箱を探す。地下足袋を脱ぐ暇も惜しかったのを覚えている。台所から膝で家の中を五〜六歩駆けこむ。爺ちゃんがいたらどやされていたはず。すぐ傍で三番目の姉が風呂を焚く用意をしていたのだろう。庭から薪を抱えながら走ってきた。
「どうしたん?」
「鎌で切った!!」
「何やってたん!!馬鹿やね!!」とかなんとか。
その辺に滴り落ちる血を姉は首に巻いた手ぬぐいで急いで拭く。
今は姉に構っている暇はない。
傷口を台所の湧水にドボッとつけて洗い、ザバッと消毒液を傷口に思い切りかけ、新しい手ぬぐいをピーっと裂き二本の指をキュッと一挙にきつくしばった。背後で姉が何か言っていたのだが聞く時間がもったいない。多分変わりに私が行くから、あんたは風呂を焚いて・・とかなんとか言っていたに違いない。全速力で走って戻る。仕事を途中で交代などできるか・・・ここまで必死でやったのに。。。
泣きそうな気分だった。
いやいや既に泣いていた。
何をやってもいつも私は姉ちゃんたちのように上手くできん。
いつも皆の脚を引っ張る。
一番小さいのでしょうがない・・と皆は言ってくれる。
でも失敗した時の皆の顔つきで、皆の心の中の小さな舌打ちが私に届く。
「ごめん。又足引っ張るよ、あたいは」と。
泣きながらあふれ出る涙を手でふく。
走りながら拭く、拭きながら又走る。


息を切らして三角の田に着いた時、姉が稲を刈っていた。
「姉ちゃんは?自分のところ済んだん?」
「余裕〜!!」

手伝おうと鎌を拾う私に
「手を切ったんやろ?座って見てまっし!稲に血が付くし。」と。

他の人たちはまだまだのようだ。
いつもながら凄いわ、ねえちゃん。なんでそんなに早いの?それに比べて・・・と自分の失態を思う。

姉ちゃんは何事もなかったように稲を刈り続けている。じっと見ていた。というより見ている以外自分のできる事はなかった。
リズム・・・物凄くリズムに乗って刈っている。三角になった最後のところを刈っている。案外難しい。植えてある稲そのものがあちこち向いていて整然としていない。右端から刈って左に置く。左端から刈って右に置く。稲を空中で大きく振り回すようなことはしない。右からでも左からでも場所に寄って瞬時に考えているようだ。何より動きがとても小さい。無駄な動きもない。切り株までもが整然としている。私の刈ったところは真横に切ってあるものもあれば斜めの物もあり、高いものもあり、低いものもある。見るからにガタガタである。それに比べて姉の切り株は実に美しい。まるで計ったように右上から左下に美しい斜め線となり、綺麗にそろっている。しかもあれよあれよという間に綺麗に稲は刈り終えられていた。
頭の帽子と手ぬぐいを取り、体中をその手ぬぐいで払っていた。稲の、はしかさや服に付いた稲藁を払った。。
息一つ乱れていなかった。私なんていつも疲れてくると肩で息をしている。
そして私の座っている畦の横に腰かけて聞く。
「だいぶ深く切ったん?」と。
「ん、ごめん!!」と。
何とか堪えていた涙が又溢れそうになるのを必死でこらえた。
「痛いんか?」とも聞く。
「ごめん」口を開けばこの言葉しかない。傷口が痛いのではない。
悔しいのだ、自分のふがいなさが。最後までやり遂げられぬ自分の力の無さ、頼りなさが。
姉は湧水のところに行き自分の手ぬぐいを何度も丁寧に洗い濡らして私に手渡しながら言った。
「顔じゅう血が付いているわ。母ちゃんみたら卒倒するよ。まるで顔を切った見たいや」
二人顔を見合わせて笑った。
姉が自分も手を切った時のことなど話してくれた。この指も・・・この甲も・・ここだって・・・とかすかに残る傷跡を名誉の負傷さながら見せてくれた。

雀がこぼれた稲をついばみに来るのを見ながら、父のオート三輪での迎えを待った。


父のオート三輪の後ろに乗る。皆は汗臭さの中にも仕事を終わらせた満足感や充実感を漂わせていた。誰が速かろうが、誰が遅かろうがいいのだ。無事終了したことが気持ち良いのだ。疲れきっている中に皆とても晴れやかな顔をしている。当時の私は田んぼの仕事はどちらかと言うと嫌いだったが、仕事を終えた時の何とも言えぬ充足感、それがいつも好きだった。トラックの荷台に乗り汗で濡れた身体に吹き付ける風が物凄く好きだった。仕事をやり終えた、自分も家族とともに頑張れた・・という満足感が何とも言えぬ、いつもは。なのにその日は顔も上げられなかった。皆の顔を真っ直ぐ見られなかった。
「なんでそんなに早いん?」と姉は皆に言われていた。実は自分の田を終えてなおかつ私の分も刈ってくれていたなんて一言も言わない。母だけが私の帽子で隠した手をちらっと見たが車の荷台では何も言わなかった。
夜、家族は「まだ痛いか」と傷を心配してくれた。私は傷の痛みより挫折感で一杯だった。
夜皆寝静まった頃 私は布団の中でその日一日の事を思い出していた。姉ちゃんのあの五株を刈るリズムを忘れないでおこうと思いながら傷の痛みと戦ってもいた。心臓の音と胸に置いた左手の傷の何時までも脈打つ音を聞いていた。
いつか皆と同じように稲刈りを出来るようになる日が本当にくるのだろうか。。。


私は薬指の爪を二つに割り、小指は神経を切りこの指たちは不名誉な負傷となる。
嫁いでからも耕運機、稲刈り機、田植え機などを使うが、後にも先にも田んぽでの怪我はこの時限りである。どくどくと何時までも指先で脈を打ち、腕を下ろすと傷みが増した。完治するのに何カ月もかかったが、九月になり登校するとあの子もこの子も何処かに包帯代わりの手ぬぐいを巻いていたり大きな絆創膏をしている。お互いにどうしてなったかは聞かずと知れたこと。中に左足を怪我した子がいた。
「どうしたん?」と聞くと勢い余って鎌で足を切ったと。なかには顔に絆創膏の子も。
「はっ??稲刈りしてそんな所切る?」と大笑いしたものだが、なんの、手を切るのも大差はない。目糞鼻糞を笑ろう・・五十歩百歩である。

みんな貧しく、みんな日々に追われていた。
でも互いに労わり小さな時から労働の尊さや必要性を心得ていた。
学校に行かせてもらう有難さも、勉強できる幸せも知らず知らずに分かっていた。
だからこそ、自分のできる精一杯の仕事をした。
何とか家族への協力を一人前にこなしたかった。
家族に役に立つ自分になりたかったのだ。


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変幻自在のinuwanさんの稲刈りのブログをみながら昔の事を思い出し懐かしく思い出していた私。
長い文で本当にごめんなさい。
nikkokisuge の姐さんから言われそうやなあ・・・
「写真の数が減ったのに、今度は文がなげーよ」と。
相すみませぬ。
でも書いていて物凄く楽しかったよ・・・〜♪
ほんに・・・ほんに・・・すまぬ・・・・〜(笑)
正直いうと、この後に私のリベンジ編がある。
それも書きたかったのだがそれこそ余りに長くなりすぎ〜。
それは又機会があれば・・・。無いかもしれぬ。。。




   【文中の黒と金の写真について】
  
 伊藤若冲の版画帳「玄圃瑤華」(げんぽようか)を元に久谷政樹氏がデザインしたポスター「黒と金の世界」(世界のポスター展入選)を京都西陣の帯屋さんがランチョンマットにつくりあげたもの。結構気にいって使っている。