和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

雪の京都

行ってきました、授賞式。
でも授賞式の事は書かぬ事にした。

それより授賞式に行くついでと言ってはなんだが、以前から行きたかった所をこの機会に何か所か回ることにした。
で・・・今日はその話。

授賞式は2/15だったのだが、13日夕に京都に入った。
仕事のまんま電車に飛び乗ったのでなんと・・私は制服のまま。ブラウスの胸に我が「和装組曲」の名前〜・・・・・どんくさい。でもしょうがない。着替えに家に帰っている間もなかったし着替えを持ち歩く気もしなかったので。(笑)
授賞式の時に着る着物と帯は既にホテルあてに送ってある。バック一つで身軽に電車に飛び乗った。

その足で駅から直行したのが日蓮総本山「本法寺」。お寺の拝観終了時間も迫っていたので。

日蓮聖人の正しい継承者を自認し、数々の投獄や拷問に晒され「鍋かむり日親」とも言われた日親上人が、波乱万丈の生涯の中でこの寺を建てたのである。彼が投獄された時に本阿弥清信と獄中で出会う。清信は強い影響を受け、日蓮宗信者となっていくのだが、この清信が本阿弥光悦の曽祖父にあたる。これ以来本阿弥家は本法寺菩提寺とする。後に本阿弥光悦と父の光二は私財をなげうち伽藍の整備に力を尽くしている。
で、この本法寺のあの有名な「巴の庭」は光悦の作。
工事中の為、一番の見せ場は写せなかった。ご容赦を。
春の大涅槃図ご開帳に向けて寺内を色々手を入れているのであろう。

光悦はご存じ琳派の祖とも言われ尾形光琳、乾山、酒井抱一らとともに着物の世界でも押さえておかなければならない一人でもある。
でも今回は彼ではなくこの方・・・長谷川等伯

写真の等伯の像の左の松は光悦が自ら植えたとされている松であるとか。


等伯の左手には絵筆が握られたいるのが分かるだろうか。
今回は長谷川等伯のあの有名な仏涅槃図をちょっと見ておきたかった。

故郷石川県の七尾を追われるように京都に来た等伯はこの本法寺に身を寄せここが彼の京都での活動拠点となる。安倍龍太郎の「等伯」の書では等伯の息子は、狩野派の策略で殺されたことになっているのだが、真偽は知らぬ。その26歳で亡くなった一人息子久蔵の死後、等伯は絵筆を持てなくなってしまう。その後初めて絵筆をもって描いたのがこの本法寺に納められている「仏涅槃図」である。


この絵に関しては複製ながら写真撮影禁止なのでお見せできない。
いつか京都へ行かれる機会があればご自分の目で。。

安倍龍太郎の書を読んだ時から一度この涅槃図を見てみたかった。
縦10メートル、横6メートルの大迫力である。勿論常時お寺に展示しているのは複製である。本物は何日間だけ日を決めて展示されるようであるのだが、私は本物であろうが模写であろうが識別もできぬのでいいのだ。本物を見ようと群がる人の波の中で見るよりも、ゆつくりと一人で微かに匂うその雰囲気を楽しみたかった。本物を見たい方は3月に展示公開される。3/14〜 4/15とか。ちなみにこの日の私はずっとお寺の中でただ一人の観覧者だった。

等伯が供養を目的に一心不乱に描き、そして又それが自身への生きる力になったのであろう。
釈迦の死を嘆き悲しむ多くの人の中に彼自身の姿を書いていることも興味もあった。

どんな素晴らしい偉業を成し遂げた釈迦のような方でも、悟りの境地を開かれた日蓮のような方でも、何時かは死ななければならない。死はこの世の常。しかもどんなに多くの方々が連日嘆き暮らしたとしても死んだ方は戻ってこない。残された多くの人はその悲しみを背負って生きて行かなければならない。ましてや親にとっては我が子の死は自分自身の死よりはるかに乗り越えることのできない深い絶望の闇であり、以後の人生をその闇の中でひっそりと生きて行かねばならない。
等伯が一切筆を握れなくなってもそこから立ち直るきっかけとなったこの仏涅槃図。何時か機会があったら・・・と思っていたのだが、今回期せずして見に行くことができた。

そしてもう一か所行きたかった場所・・・これはちょっと遠いので次の日にした。






いったい此処は何処の写真?
まるで北陸の雪景色。は・は・は・・・・れっきとした京都。でもちょっと奈良より。
酬恩庵一休寺・・・・漫画でおなじみ一休さんのお寺。



お墓には菊の御紋、そして誰も入れない。
そう墓地は宮内庁の管轄。なんと一休さんは御小松天皇の縁の方。

一休さんと言えば虎・・・
玄関にはこんな衝立。前からと後ろからと。




さらにここでちょっと見ておきたかったのはこの禅寺の方丈。


加賀城主前田利常が大阪の陣の折、木津川に陣を敷き、この寺に詣でたのだが余りにも寺の荒廃が凄まじく後にお礼としてこの寺の方丈を寄進したものと言われている。下の写真の雪で覆われている屋根の建物。

ここの内部の襖は狩野探幽の手による。

勿論本物は何処かに保管されている。模写である。
硝子戸の中に本物を何枚か展示してあった。

私たちの思う一休さんとは随分イメージが違った。。
色々展示しているものを見て行くと・・・

一休禅師の手によるもの。
彼はこれを杖の先につけ辻で説法したと伝えられる。

     正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

あの有名な句もこの髑髏をつけた杖につけて歌われたとか。
皆が正月だ、やれめでたいと浮かれていても人は常に死と隣り合わせであると常に悟っていたのであろう。

若い時は人がどうであれ、自分の身には不幸も不運も降りかかってこない・・どこかの誰かの話としてしか思っていない。
しかし、年をとりいろんな病気や怪我を通し、又近しい人を次々と亡くすことによって自分もまた病気や怪我、そして何時しか訪れる死を受け入れねばならない身であると少しずつ悟って覚悟していくのである。そしてそれを悟って行くことが又老いて行くことでもあるのだと。


一枚の額縁の絵を見るような本堂。


その傍らで咲く一輪の花


沢山で咲くのではなくたった一輪咲くからこそのこの美しさ・・・
雪を被ってこそ この花は美しい・・・そんなことを思いながらこの寺をあとにした。
ここは一般客は誰一人いなかった。でも三脚とカメラを手にした多くのアマチュアカメラマンらしき人が次々と入ってくるのと遭遇。
この方々の中にブログでお邪魔するカメラマンもいらっしゃる・・・かも・・・なんて思いながら。

実に何とも言えぬ美しいひっそりとした静かなお寺だった。

長くなった。
最後にここを。

この寺から車で五分か十分もあればつくはずのお店・・・普段なら。
この日は一時間以上かかった。突然の雪のおかげで。
ここは・・・お蕎麦屋さん・・



ちょっと風情があるでしょ?よくない?
勿論あちらこちらから隙間風が入る。
小さなストーブがたかれていた。
壁は藁が所々むき出しである。
でもここの床の間をみるとここの主がただものでないことがわかる。

今は亡き白洲正子氏と親交があり、彼女の骨壺を作ったことでも有名な陶芸家のお店。
今は身体の都合もあり陶芸からは身をひき山奥で蕎麦を打っていらっしゃる。
蕎麦を打つ傍ら正倉院碁石の復元作業に尽力もされている。
ほとんど話はされない無口な方であるがこのお店を見ていただくとこの方のこだわりが伝わってくる。
この日は余りの雪に店を開けないつもりらしかった。間に入る方がはるばる北陸から来たのでと説得してくださった。
おかげでお店の中にも入れたし、お蕎麦も堪能できた。少しお話もできた。
暖かな気持ちになって店を出た。

お店の名前はアップしないことにした。
あまりそういうことで騒がれたくない方であろうから。

と、言うわけで授賞式の前に今回行きたいと思うところを行ってこれた。

授賞式の写真?
一枚も載せないことにした。

一代で画風を確立し数々の地位や名誉を手に入れはしたものの命とも言うべき最愛の一人息子を失った等伯・・・・
牢獄生活や破門、凄まじい幕府からの数々の拷問に耐え抜き日蓮上人の教えを守ろうとした日親上人・・・
天皇の御子として誕生しながらも禅僧として市井の方々に説法することで生涯を全うした一休禅師・・・・
陶芸家として嘱望されながらも思うところあって蕎麦屋のご主人として静かにひっそりと生きている方・・・

何が幸せで何が不幸せなのかは誰もわからない。
ただひたすらに粛々と生きる方々を垣間見させていただいた時間だった。

授賞式の華やかな時間より私には自分自身を深く考えさせられる一時だった。

授賞式や着物パーティはもういい。
私にとって一級合格した事だけでそれでいい。それで十分ではないか。
合格証書を頂いて静かに帰ろう・・・
にぎやかな音楽や華やかな着物姿の人たち、豪華な食事が並ぶテーブルを見ながら、不思議と思うことはひっそりとした風景ばかりであった。

涅槃図であり、
髑髏の面であり、
蕎麦屋の床の間だった。


今からはまた、地道にコツコツと粛々と我が道を歩ませてもらおう・・・。
これ以上の喜びはない仕事に身を置かせてもらっているのだから。。。(拝)