和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

浜ちりめんと近江の景色&諸々ごったまぜ〜♪

4年前、丹後ちりめんを見学に行ってからは何時か浜ちりめんも見学に行きたいと思っていた。
今回京都の絣工房に行くにあたり2か月前というのに泊まる宿が取れず思案していた時にふっと気が付いた。
琵琶湖大津に泊まればいい、そして長浜のちりめんも見学してこよう、と。

丹後ちりめん工場の見学ブログはこちら・・

    縮緬が出来上がるまで
   http://d.hatena.ne.jp/umryuyanagi104/20130713/1373699230

      
     地味な話 〜縮緬・ちりめん〜
      http://d.hatena.ne.jp/umryuyanagi104/20140627/1403852750
     


江戸期、痩せた村の田畑に課せられる年貢のため、日々バタバタと飢えで死んでゆく村人を救う窮余の一策として京都に縮緬の仕組みを習いに一人の村人が志願した。
勿論京都の縮緬の仕組みを盗んでくるためなのだから、見つかれば命はないことは承知である。その工程の秘密を知るまで何年かの辛抱の後丹後に夜半逃げ帰る。追っ手を逃れながらも山中で暮らし、やがては丹後に一大縮緬市場を起こす先駆けとなっていくのは以前のブログで書いたとおりである。丹後の水の豊かさや湿度の高さが上質なちりめんを育む土地として適当であったに違いない。命を懸けて村のために罪人として追われるその人を名を替え、村中あげて匿い、今でも神様のように思う土地の人たちの人情の厚さと恩義に報いようとする律義さがあっての話でもあった。


それから丁度70年後、同じような事を考えた人達がいた。それが長浜の二人、中村林助と乾庄九郎であった。彼らは丹後へ習いに行くのである。勿論藩から許可など受けられないので二人は脱藩してのものであったとか。ただ技術を持ち帰った後も縮緬の産地として発展していくには容易な事ではなかった。盗んだ技術からできたちりめんをもはや京都の方は見向きもしなかったのである。意地でも京都では買わなかったと聞く。ところが彦根藩縮緬産業の後ろ盾として、藩を上げてバックアップし京都との直接交渉にあたり、率先して産業として保護政策を引いたのである。何よりも長浜の眼前に広がる琵琶湖、伊吹山からの大量の雪解け水という地理的環境が大きな力となったようである。それ以前から姉川が何度も何度も氾濫するため、桑の木を植えて氾濫から土地を守るという事もされていたため養蚕に非常に適していたという歴史的な背景も十分整っていたとも言われている。

伊吹山の雪解け水・・・・・


軟水である琵琶湖・・・・



この大きな力が一大縮緬の産地としてのバックグラウンド。なにせちりめんを作る時も又精錬する時も大量の水が必要なのである。


昭和48年のピークを最後に、今日の着物離れという社会情勢もあり、一軒また一軒と縮緬工場は閉鎖され消えて行っている。
何とか規模を縮小し維持しているかつての大きな工場も全ての機械が稼働しているわけではない。



特に丹後は、紋縮緬という形を特色として持っているのだが、長浜は紋織をほとんどやっていない工場が多いようである。
現在平ちりめんというだけでは中々生き残りは難しいであろう。

工場の所々にかつての懐かしい面影も見えるのはとても興味深い。



今回見学させていただいた工場。


特殊撚糸を開発され裾さばきのよい織物を製造し生き残りかけているとのこと。
低温乾燥でじっくり時間をかけて染色性を高めることに力を入れていらっしゃる。



工場も随分少なくなったという工場長さんのお話なども聞きながら、工場独自の生き残り戦術がどうこれから生きていくのか・・という時代に既に入っているようである。
篠田桃紅さんだったろうか・・
「日本の伝統も着物も末端から枯渇していっている」と。
篠田桃紅さんはその生涯をほとんど着物で過ごされている。
墨を扱うのに日々着物である。凄いとしか言いようがないのだが。
私たち一人一人の意識から着物は既に遠い存在になっているようである。
ボタンもファスナーもホックもただの一個として使用していない衣装として、多分インドのサリーと着物以外ないのではないだろうか。


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途中移動する車の中から面白いもの発見。

大津の橋で〜
カイツブリと瓢箪」(琵琶湖でよく目にするカイツブリ、そして秀吉の瓢箪)



近江の橋で〜
わかる?
「舟と米俵・・」そして上下にあるのが分かるかな?



多分「算」。近江商人からかな、と思わず遊び心が楽しくて笑っちゃったよ。



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折角近江まで来たのだから・・と、近江八景のうち「堅田落雁」と「唐崎の夜雨」へ寄ってきた。


着物学を勉強する方には外せない所。

堅田落雁






「唐崎の夜雨」





近いので三井寺も・・と思うが朝早くから動いていたこの日はこれで力尽きてしまった。
ご容赦を。



翌日は比叡山に、琵琶湖側から登る。









勝龍寺城
嘗ての城は焼けてしまっているので、今はその場所に市民の憩いの場所として復元されている。
前の通りは「ガラシャ通り」





単なる小さな寺かと思っていたのだが、何とかつて光秀の三女玉(ガラシャ)が細川忠興に嫁いだ城であった。
光秀が山崎の合戦で敗れ一時身を寄せた小城だが、既にこの城では身を守れないと坂本城に即座に落ちのびようとする。
主だった13名だけでの逃避行。
その途中の小栗栖村の竹藪で刺されて光秀は落命するのだが・・・この辺の写真は以前の「小栗栖」のブログに書いてあるので省く。






細川家の九陽紋の瓦の上でカワウが「こんにちわ」と私に挨拶してくれる。
どんな時も自分だけのために世界は動いていると勘違い・・・勘違い街道まっしぐら〜・・・
生来めでたく生まれついているのもこれはこれで頗るありがたい。(笑)

6月の「小栗栖」の琵琶曲の為少しでも見ておきたかった。
2年前の時は時間の都合で「比叡山」と「勝龍寺城」は訪ねることができなかったので。

ここまで来たのなら・・と「宝積寺」まで足を延ばす。
秀吉が光秀打倒のため一夜にして城を築き光秀打倒の足場とした寺。




移動途中にある場所で期せずして日本の絣織12点の展示会場に遭遇。
案内してくれる方の「えっ?寄るのですか?」
一瞬ちょっと見せる迷惑そうな顔に気も付かぬ振りをして、そこでも更に時間を費やしてしまった。
時間が押しているのは十分承知していたのだが、絣加工を見た後にはスルーできるはずもなく。
その絣織は今ではほとんど見ることのできない貴重なものなのだが、写真撮影禁止ながら特別に許可を頂いた。
人間国宝級のもの、今では幻となったようなもの、重要文化財級のもの・・・何時か機会があればお見せしたい。
今回はそれまで入れるとあまりに長くなりすぎるし、多分今月の容量が危ない。
そんなわけでそれでなくてもかなりハードな日程なのに更に無理をしてしまった。
しかも、体調は出かける時から少しずつ下り坂だったのがこの日で一挙に加速。
比叡山で長い階段や坂道を歩いているうちに体は熱を帯び少し意識くらくら〜
比叡山は工事をしていてその為迂回歩行がはなはだしくそれもかなり老体にはきつかったのだろう。

食が進まぬのでホテルの方に丁寧にお断りしおかゆにしていただく。
頼りない体で辛うじて・・・・ホテルの方が向けるカメラに微笑む。
力のない頼りない笑顔〜・・・(笑)
バックの琵琶湖が写っていると良かったのに、残念。


この夜半にはついに38度5分の熱が出る。
自分のうめき声で何度も目を覚ます。


金沢に帰ってきて一週間・・・
やっと普通の状態に戻ったよ。良かった。
若い時のように一晩で回復〜とはいかず。
年を取るというのは思い通りにならぬ自分の体調や体と如何に折り合いを付けながら日々生きるか、ということかも。
いやいや・・私の場合は折り合い不要。
自分に似つかぬことなどしない方が良い。
日ごと夜ごと、辛うじて頭の隅に存在する観念を、我が情念が組み伏せねじ伏せている感有。
情念の力技〜☆
5日間不在にしていた我が家、帰ってから更にそのまま一週間寝込む日々。
行くべき所には行った。
見るべきものは見た。
逢うべき人にも会った。
悔いはない。
それで気持ちは満たされていた。
やっと普通の生活に戻ったかな〜(笑)

長くなってしまった。
多分もう今月の空き容量がない位に使った感。
行けるだけ「行け〜っ!!!!」で書いた感。

ではでは・・・今回はこの辺で。
次は5月に

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