和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

幻の絣



最近ブログに馬鹿な事ばかり書いているのでたまには着物を勉強したい方のために知識を少しは提供しなければ・・と思う。
今日は貴重な「絣」の実物を少しお見せしよう。
「絣」については以前ブログに書いた。
京都の最後の絣職人、徳永弘氏の工房見学。

    名工に学ぶ3  絣職人・徳永弘氏に学ぶ
            http://d.hatena.ne.jp/umryuyanagi104/20170417/1492387001


基本的な絣の知識はそちらをご覧いただければいいのだが、その時体調不良ながら帰宅を一日延ばしても見に行った「絣」展示会場があった。
今では中々見ることができない全国の貴重な絣の展示であった。

日本に伝わってきた絣の流れとしては大きく二つある。
一つはわずかながらであるが北から南下するルート。
一つはインド、中国など南方から北上するルート。
大半はこの後の絣が多いのだが、
今日はその中で10種類程度の絣を中心に紹介する。

これは今では幻と言われるような貴重な反物も入っている。
まずは市場にはない。というより既に大半はもう作っていないのではなかろうか。

今回資料として大切に保存し呉服発展のために保管され展示されている京都の会場のご厚意で写真に撮らせていただいた。
勿論私は現物を既にこの目で見せていただいている。その時の手織物展示は12織物であったのだが、わがパソコンの突然の故障で絣足の大きくアップしたものの大半は消えてしまったのが非常に残念ではあるのだが。
辛うじて消滅から難を逃れた物の中からなんとかピンぼけながらお見せできるものはお見せしたい。又、ここの担当者の方で我がパソコンの故障を知り幾つかを送ってきて下さったものもあり、それと織り交ぜながらのアップとさせていただきたい。又解説文は私のまずい解説より、その時に会場で展示されていたホワイトボードから、全文抜粋もあれば長い場合は一部抜粋もある。それも今回許可を頂いたのでお見せできるのが本当にありがたい。本当にここにはいつもお世話になっている。

そういうわけで撮影方法が違う形で混ざっているのはその為でご容赦を。

まずは

○「琉球福木染絣木綿」
    (浦崎康賢 沖縄県指定無形文化財技術保持者 沖縄県那覇市首里)



福木の茂みは防風林にもなるが、黄色を染める代表的な植物染料としてしられる。
紅型では黄の地色に福木がよく用いられるが、織物では高貴な位の人々の衣服にみられる。
この福木染地織に藍色の絣柄り着尺地は珍しいもので戦前の沖縄染織をよく知る名匠の浦崎氏が限定的に織り上げたもの。

○「南風原琉球紺絣」
    (大城織物 沖縄県島尻郡南風原町)



沖縄県随一の織物産地南風原(はえばる)では南風原紬、首里上布、手縞、花織、紺絣など様々な絹織物を算出する。
中でも琉球絣柄で構成した琉球藍(泥藍)の発酵建てによる藍染めの絣は古くから伝統があり、戦前は木綿だったが現在は紬糸又は絹糸による美しい模様を織りだして定評がある。
沖縄の織物は全て手織りであることはあまり知られていないが、力織機による織物は一反もない。

○「薩摩絣」
   (永江明夫 宮崎県都城市)



日本本土における紺絣の先駆けは元文5年ごろ(1740)にはじまる薩摩絣と伝えられる。西郷隆盛銅像も木綿絣を付けているが当時のものは素朴な十字絣や幾何学絣であったことが断片からうかがえる。しかし早々に衰退した薩摩絣が復活への第一歩を踏み出したのは昭和25年。鹿児島県人の永江氏が一途にその役割をはたした。


全く余談であるが、「兵児帯」(へこおび)という帯がある。
昔のおじいさんやお父さんが家でくつろぐときに締めた帯で西郷さんの銅像も絣の着物に兵児帯だったと記憶している。
蝶々結びにしたり片蝶結びにしたりしたふわふわとしたあの帯、今では女性がラメ入りのものなどを浴衣の時などに使っている。
この「兵児帯」の「兵児」というのは鹿児島弁である。「書生」さんのことである。
当時書生さんは皆この帯を締めたことからこの名前がある。
今では探しても中々ない。絞りの兵児帯などまず見つからない。
古いタンスから出てきたらどうぞ大切になさってほしい。

○「久留米絣
   (森山虎雄 国総合指定重要無形文化財技術保持者 福岡県八女郡広川町)




木綿の紺絣では名実ともに日本の代表的な絣織物である。紺絣三大産地の「伊予」「備後」は衰退著しいが、本物を指向する久留米絣藍染めによる伝統の絣技術と、斬新な感覚で人々の心に安らぎと和やかな和風の美を表現している。久留米山地はいまなお藍染めが各所で行われ、手括り絣と投げ杼による手織り紺絣も健在である。

○「伊予絣」
  (白方産業 愛媛県松山市)



伊予絣は伊予国温泉群垣生(はぶ)村今出(いまず)・・現・松山市に生まれた鍵谷カナによって江戸末に創始したと伝えられる。
当時は今出鹿摺(いまずかすり)と称した。日本を代表する紺絣まで発展したが、現在では伝承する機屋は一軒となっている。素朴な藍染めの絣柄がいかにも南国にふさわしい雰囲気を醸し出している。



○「備後絣」
   (森田茂男 広島県芦品郡新市町)



嘉永6年に富田久三郎の工夫によって作られた備後絣はその後久留米絣、伊予絣と共に日本三大紺絣の一つに数えられるにいたった。産地も三市十郡の広範な地域に及び一時は久留米絣をしのぐまでに発展した。しかし、広幅のデニム生産へと生産品目は移行し、現在では世界でも有数のジーンズ生地を供給する生産地となっている。伝統の紺絣はおしゃれ着用として活路を見出しているが、手織りによる紺絣も数軒り機業家の手で継承されている。


○「弓ヶ浜絣」
   (嶋田悦子  鳥取県指定無形文化財技術保持者 鳥取県境港市)



島根と鳥取の県境にある夜見半島一体の地域で自前機として織っていた時代がある。様々な模様を緯の絣糸で織り表す絵絣の優しさはこの地方の風土が誕み出す特有な美意識に溢れている。弓ヶ浜絣は一般には浜絣と称されるが、手括り絣による藍染め、手織りでは幾何文を得意とする久留米絣と並んで評価が高い。


○「倉吉絣」
         (福井貞子 鳥取県倉吉市)

紺絣木綿の産地が西日本地方に集中して存在したのは、絣技術の伝播の道と蓼藍の最大の栽培地・徳島を近くに持っていたことからと思われる。紺絣といえば、薩摩絣、久留米絣、伊予絣、備後絣、弓ヶ浜絣、倉吉絣、作州絣をはじめ、西日本の各地には多くのローカル紺絣があったと推察される。
文政年間(1818〜29)に城下町倉吉で始まったとされる倉吉絣は、藍の発酵建てによる藍染め絣糸を手織りで、主に緯絣で絵模様を織り表す紺の絵絣を得意とする。現在も保存会を中心に伝承され、市場に送り出している。


○「作州絣」
  (第一織物 岡山県津山市小姓町)


中国産系の中にある城下町津山で伝承される木綿の絣織物。絣技法は明治中期に倉吉絣の技法が導入されて、津山でも絵絣が盛んに織られたが、いずれも自前機という自家用に供するものであった。この美作の絣が作州絣の名称で津山の特産品として市販されるようになったのは戦後のことである。

○「廣瀬絣」
   (天野圭 島根県指定無形文化財技術保持者 島根県能義郡広瀬町)


山陰地方の誇る代表的な絵絣の一つ。早くから商品として流通し明治30年頃には年産10万反にも達している。
技術の面では絵柄を彫った型紙を糸に摺って、絣の種糸を作る広瀬特有の方法で絣糸を作っている。現在では織元と言えるのは一軒のみで、ほかに廣瀬会館で本格的な絣生産を行っている。


○「大和白絣」
    (梅本道夫 奈良県大和高田市)


日本の二大白絣木綿と言えば東の「中野絣」と西の「大和絣」だった。どちらも今では完全に衰退して資料室でその盛況時代をしのぶに過ぎない。
大和絣には紺絣もあったが、主力は端正な板締め技法による白絣に置いていた。
この作品は最後まで大和白絣の牙城を守っていた梅本家の貴重な白絣。同家は昭和45年ころ廃業している。


○「中野白絣」
    (山口光由 群馬県)



中野白絣を舘林白絣とも称するように、戦前の白絣生産の盛んな時期には、群馬県邑楽郡中野村(現・邑楽町中野)と舘林町(館林市)がその産であった。中野絣は安政年間(1854〜9)に木綿竪散らし絣を工夫したのがそのはじまりとされる。中野白絣の技法は大和白絣同様に、板締め絣によって絣糸を染め、手織りで織っていたが、昭和50年初頭には白絣の織元は山口光由機業場のみとなり、年間100反に満たない状況となっていた。当時手織りしていた、関口キン、内田アサの両人も亡く、現在では郷土の伝統織物を後世に残すべく中野絣保存会が結成されている。


一般には禁止されている写真撮影を快く許可頂いただけでなく、会場での説明解説文まで提供くださった(財)織成館の担当者様、本当にありがとうございます。
廃れていく日本の衣装に何とかもう一度命を吹き込もうと格闘し生涯をかけていらっしゃる匠の方々のたゆまぬ努力に心から敬意を表したいと思っています。これからも着物文化、着物の歴史だけでなく、携わる方々への熱い思いを少しでも発信できるように頑張りたいと思いを新たにしました。着物に携わる末端の人間としてではありますが、一枚の着物を纏える事に日本人としての矜持を感じる私であります。


 着物・・・日本のこれからにどうか今一度その存在が静かに見なおされ、
          そして脈々と未来に伝わっていくことを祈ってやみません。



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今回嬉しいことに京都のその担当者さんから「ちまき」を送っていただいた。
早速仕事場と家の玄関につるしておく。京都へ行くと時々民家の玄関などにかかっているあれである。
その説明によれば祇園祭の粽(ちまき)は元来身を清め、無病息災を祈ることに起源を持っているとのこと、お守りとして古来信仰されているとの説明書きがあった。特に長刀鉾の粽(ちまき)に添えられている「蘇民将来之子孫也」の言葉は八坂神社のお守りでもあるとのこと。
往古、八坂神社の主祭神が旅をされていて難渋していた時に、非常に貧しいながらも、蘇民将来の家で手厚いもてなしを受けたことからこの蘇民将来の子孫には疫病の厄を免れさせようと約束されたものとか。長刀鉾の時に新しい粽に変える風習があるとかで以前、十二単を我が教室で指導してくださっていた京都の会頭先生もくださったことがある。風雪にさらされないようにと玄関の中に下げたのだが、普通は外に下げるものだそうである。
今回は二つあるので、一つは我が家に、そしてもう一つは教室に・・・と。
これで我が家の厄除けは万々歳であるのだが、私自身が「厄」の張本人かもしれぬ。
それだったら全く何の役に立たぬことになる、何といっても既に家の中に厄が居座っているのだからして・・・…(笑)