只今帰った次第・・
読み返すとあまりに支離滅裂。
分かる人にしか分からぬ内容。
答えにも何にもなっていない。
朝の分を「削除」したいが・・それもどうだか。
深謝
で・・・改めてキチンと書くことにする。
なるべく余談、脇道に行かぬよう気をつけまする。
< 落ち着いて・・・お答えしますね〜☆・・ >
〜紋について〜
源氏と平氏はご存知かと思う。
源氏と平氏の前の時代は藤原氏が全盛。
道長が何人もの娘を天皇の后とし権勢を誇っていたのは周知のこと。
元は「中臣」(なかとみ)といって天皇と人との間という意味で「中の家臣」から。
その中臣鎌足の時、中大兄皇子を立てて大化の改新があった・・このあたりは歴史で習ったかと。中大兄皇子が天皇になった時功労のあった鎌足に藤原の性を与えたのが藤原姓の始まり。以来藤原の姓の方々は千年以上天皇の側近として使え、現在でも多くの藤原性の方々が天皇の侍従として多いとか。(その藤原の姓の方の家紋が藤が多い。)
その次に台頭してきたのが源氏と平氏。
源氏は嵯峨天皇が皇女と皇子を臣籍に卸したことから始まり源氏の「源」は皇室と源を一緒にするという意味らしい。
かたや平氏。桓武天皇も又自分の孫にあたる皇子を臣籍に卸したことから始まった家系。平氏の「平」は平安京の平から取ったとか。
その時点で「藤原」「平家」「源家」・・それに「橘家」の四大姓がそろうのである。
「橘家」は少しことにするのだが奈良時代、元明天皇が寵愛した女官(三千代という名前だとか)に自分の好きな橘のつく姓を与えられたことから。京都御所の紫宸殿には「左近の桜」「右近の橘」が今でものこされているのも名残だとか。
さて源氏と平氏が戦乱の世・・源氏が白旗、平氏が赤旗をたてて敵味方を区別した。
この辺は琵琶の語りにもよく出てくる。ただ段々家の数や敵味方の数が多くなるにつれ敵味方がどんどん分かりづらくなったり、また功名をかけて争う必要からも平氏と源氏双方の中で紋をたてて敵にも見方にも分かるように戦う人たちがでて来る。それまで牛車や持ち物などに使っていた印を幟としたり御旗としたりして。
平清盛の長子重盛が揚羽蝶を使ったのが有名でいつしか平氏の紋となる。
源氏の流れは色々別れ、清和源氏、村上源氏、嵯峨源氏、宇多源氏と
色々あるのだがなんといっても義経が笹竜胆を使っていたのが有名。
家紋のおこりはそんな感じ。
それが戦国の世には本来の家紋から始まり天皇からいただいた家紋、功労の意味でもらった家紋、縁組からもらった家紋、はてまた自分が好きで使う家紋・・・色々数が多くなっていく。ただ色々頂いても替紋として使う場合が多く、定紋として変えない家紋もある。上杉謙信の「笹に雀」はその筆頭。普通は天皇から菊の御紋・桐の紋を使っていいと言われればそれを定紋にしても良いようなもの。名誉なことだから。でも生涯「笹と雀」を大切にし、定紋としたし、戦地に持っていかなかったという。
反対に天皇から使ってよいと言われたのに拒否した例が徳川家康。それ以降菊の紋は誰にも与えられなかったと。それぞれさ〜。
先のブログでも書いたように上杉謙信の「毘沙門天」の「毘」や武田信玄の「風林火山」、豊臣秀吉の「ひょうたん」などこれらは本人が好きなために使う目印なので案外「幟(のぼり)」に多い。
何故この紋を使うのか・・
何故この紋を使わぬのか・・・
色々理由はあろう。
好き好きもあろうし理由もあろう。
その武士のこだわりもあろう。
そういう一つ一つの疑問にこたえてくれる、
私がいつも使っている家紋のこと色々ガイド。
それぞれの家紋についての切り口が筆者によって全く違うのでそれも面白い。
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お婆も段々本屋の手先となっていく。(笑)
興味のない方には本当にごめんやで。
ただ着物には紋の意味や大切さが欠かせない。
紋を如何に皺をよせずに着せつけるか、
左右の抱き紋(前から見た胸の位置の紋)を同位置に持ってくるか、
紋に皺をつけないためにどうしまうか、畳むか。
紋付の場合は一番大切なこと・・・ 。
もっとも最近は貼り付けの紋が多いのでいくらでも直すことができるものもあるにはあるのだが・・・
少しも余談を書かなかったつもりなのに・・・う・〜・ん・・また長くなってしまった。ごめん。