和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

石川先生〜♪

小学生の時の家での私の生活をちょびっとながら着物の話の合間に書いた。
で・・・今日は私の僻地小学校生活を(笑)。

小学校一年生から六年生までのうち一つブログを書くとしたらこの先生しかいない。

               「石川先生」

石川県の教育関係者なら・・・ただし年配なら、と限定しないといけないかも。なにせ今から五十年前の話である。
超が幾つもつくくらい有名な先生だった。
障害児教育、僻地教育、率先して歩んだ先生であるとか。

私の行っていた小学校は僻地と言ってもよいほどの古くさびれた人のいない小学校で私たちが中学に進む時はまず隣接している中学が廃校となった。
しかもその校下は広範囲から子供が通い、ひとクラス40人余りであった。
私のように海沿いの村の子供たちは歩いて一時間は優にかかった。
そういう貧しくさびれた言葉の荒い土地柄だったので新任教師はものすごくこの地の配属を嫌がったらしい。あそこの小学校に転任されるなら教師を辞めるとまで言う先生もいた。(一年生の時に担任だった先生が、二十年ほどたっての同窓会でそう本心を漏らされ聞いた私たちは驚いた。あんなに優しくいい先生ですらそう思っていたのだと。)
確かに私たちの教養のかけらもない言葉の汚さと文化の香りすら感じぬ生活の荒っぽさは町から来た先生には耐えがたいものであったに違いない。「今度の新米先生・・どれ位もつべ?」何て話すのは大人だけでなく子供たちも揶揄気味に話したものだ。

ところが・・・ところが・・・
その廃校になるような小学校に超有名な先生が来る・・
まずは職員室中の先生方、村中の父兄、学校の先輩、後輩の噂が噂をよんだ。
当時障害児教育の「赤い手袋」という映画が涙を誘ったが、その映画を作られた先生であったとか。
私は見たことがないのであくまで伝聞。
大人の話を聞きかじり友達同士でつなぎ合わせ、憶測というスパイスを振りかけて噂は走る・・・走る・・・面白おかしいという二つの羽を付けて噂は飛ぶ・・・・飛ぶ・・・断定できる要素の何もない話だけが先行した。
怖いぞ〜・・心配やぞ〜・・勉強しないと大変やぞ〜・・・
五十年前とはいえ、英語塾や数学塾、英才塾が大はやりで町のちょっと裕福な家は結構通っていたらしい。
学校中をかき回し、改革し、バッタバッタと切り倒されるのはどこのどの教室??やんちゃ坊主??かと。

私の話は前置きが長すぎ〜・・・(笑)

石川先生が配属される前だけで夜が明けてしまうほどブログの紙面をとりそうなので石川先生の授業を紹介することにする。

         ・・・・・・・・・・・・・その1・・・・・・・・・

前日、先生から1人バケツ一個を持ってくるように言われた。 
今のようにビニール袋などどこの家にもない。思い思いのバケツを持って学校に集合。
赤ちゃんのおままごと用の小さなバケツから消火バケツかと思うほどの大きなバケツもある。
先生は皆を前に
「今から海に行こう」と言いだした。

浜辺で貝をバケツ一杯取ってきた。
どの子も遊びだけに専念できるほど恵まれた裕福な家ではなかったのでその日の事は何十年たったクラス会でも話題になり「楽しかった〜」と。
私は・・といえばそのころ生まれたばかりの姉の子を背中に・・または乳母車に乗せて子守りをしながら友達と遊ぶ毎日だった、勿論常に家に帰る時間を気にしながら。当時は遊びだけに専念するというのは子供心にもものすごく後ろめたい気分のものだった。

海までは子供の足で一時間、それもゆっくりワイワイ、ガヤガヤ。
行きと帰りの道中は皆ででっかく歌を歌って・・

      こんめぇ 馬だちゅうて 馬鹿にすんでね〜えよ〜♪

      今に見ろ でかくなって 野原を駆けるだよ〜♪

こんな歌。勿論音楽の教科書にはない。どこのどんな方言かもしらぬ。

「小さな馬だとばかにしないで 大きくなって野原を駆け巡る馬になるよ」という意味。

先生に教えてもらうどの歌もすましたものがなく心が温かくなったものである。本当に何処かの地方にそんな歌が実在したのかも知らぬ。何十年たっても私たちの同窓会ではこの歌が一度は合唱される。

貝をとって学校に帰り貝の口がどこにあり、水は何処から出すかなど教えてもらう。
「ハマグリ」は形が栗に似ている。「浜の栗」から「はまぐり」となったとか。
教えてもらうことは正に一瞬。それもまた他の先生とは違い新鮮だった。
沢山余った貝を給食室に持ち込みおばさんに給食用に頼む先生。一緒に私たちも頭を下げる。
いやそうなおばさん。「今日は無理。明日なら・・」と渋る。
勿論今では出所不明なものを子供に食べさそうものなら問題になる。
1人もじもじして先生に聞く生徒がいた。
「おいら自分の分の貝はいらねえ。食べねえ。・・・・・病気で寝てる母ちゃんにその分もらってもええか?」と。
私など家が漁師だと貝は珍しくもなんともない。
海沿いの生徒たちがすぐ事態を理解して
「おいらの分、やる」「あたいも本当は貝嫌いなんだあ。これももっていけや」と自分のバケツを差し出す。
先生はその時の私たちを見ていて
「君は今日はこれでかえってよし!!」と突然言い出した。
一瞬先生が怒ったのけ??と皆一瞬思うほど断固とした口調だった。
今までなら先生の許可なしで勝手に自分たちで事をなすと怒られたから。
おずおずと貝のバケツを持って帰るその子に
「新しいうちに母ちゃんにたんとくわしてあげなさい!!」と。
この先生はひょっとして私たちと一緒かも…とあの瞬間私たちは先生を受け入れた気がした。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・その2・・・・・・・・

またこんなこともあった。
社会科の授業の始まる前、田んぼに誰それちゃんの爺ちゃんがいる・・と子供同士で話をしていた。
雨にぬれる前に<にょ>(農家の人はわかるだろうが・・切った稲を田に積んで作る円錐形のもの)にするつもりなんだろう。
今では考えられないが例え夜中に天気が悪くなって稲を積みに行かないといけない場合でも子供も決して例外ではなかった。全員で田に出かけ全員で集めたり積んだり手伝ったものだ。次の日学校があっても関係ない。家族として一緒に動いた。
だから爺ちゃんを見ている皆は人ごとではなかったのである。

黒板で年表を書く先生・・
急に外を見ると雨ポツリ、ポツリと。
みんなは爺ちゃんを見ている。
だれも黒板を見ていない。
運動場のむこう側では田んぼで雨に爺ちゃんがぬらさぬように稲を積もうとして走り足。
1人でできるかなあ・・・きっと今にざーっと降る、早くつめや、爺ちゃん。頑張れ、爺ちゃん。皆心で応援する。

誰も自分の話を聞いていない、そしてその原因をさっと悟った先生。突然、
「あのおじいさんのところに競争!!」と叫ぶ。

当時は学校の中ではほとんどの子が裸足だった。
急速に成長する足に合わせてズックを買えるほど余裕のある家はなかった。
時々姉ちゃんの・・・あんちゃんの・・・といって若干足に合わぬものを履いている得意げな子がいる程度。

みな裸足のまま走る・・・走る。運動場を超え、溝を飛び越え、遅れを取ってなるものか・・・と。
お爺ちんのところに集まると
「皆で田んぽの稲を集める!!競争!!」と。
あっという間に稲がおじいさんの周りに集まった。

「教室に戻る!!ダッシュ!!」と。
足を洗って楽しい声を弾ませて教室に帰ると町から来た先生が教室の前で仁王立ち。
「困るんですよね!!そういう勝手なことをされたら!!」とか・・・なんとか。
先生は平然として
「えっ??社会科の授業の一環ですよ。」と。
私たちは確信していった。この先生、私たちの仲間。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・その3・・・・・・・・・

又ある時こんなこともあった。
給食費や月のお金など諸々の集金日の時のこと。
農家も漁師もいつもいつも現金があるわけではない。
というより現金があるときの方が珍しい。
なにせ家族が食べる事で精一杯の時代である。
しかも兄弟は多い。
当然わずかな現金収入も渡す子供の優先順位がある。
そうすると後回しになった子は持っていけない。
2〜3日・・・ときには一週間、家庭によっては先月分もまだ・・という場合も当然ある。
集金係も心得たもので
「忘れた」という子に「あたいもさ、来月まで忘れる」と、気楽なものである。
ところがある日・・・
「何故ちゃんと持ってこない」と怒った集金係の子がいる。
町から転校してきた子だったりする。
自分の家は給料取りだと毎月毎月決まった額がはいってくる。
診療所の医師、看護婦さん、学校の先生、お坊さん、会社や事務所経営の人、お店をやってる人などの子供は案外すぐ払えたような。クラスに2〜3人ほどいたろうか。
私たちは忘れる子は何故持ってこないか、持ってこられないか・・分かっている。
だから誰も何も言わない。先生によっては先生自身がそういって怒る場合、私たちは忘れ物の天才を平然と自称するしかない。「忘れました」「家に置いてきた」「かあちゃんに渡すのを忘れた」「袋がなくなった」などと。
親がお金を工面するまで何としても時間を稼がないといけないのである。
町から来た女の先生はきりきりと怒ったものである。
「こんな大事なことを何故忘れるの??何故なくすの?!集まらないと先生困の!!」

その時の先生・・こういった。
「忘れる事もあるさ〜・・・」とサラリ。
いいから・・いいから・・・と。あとでもらうから君はもういいよ・・ありがと・・と。
私たちがものすごく貧乏なのをこの先生は知っている、しかも貧乏な私たちを嫌がらないと思った。
(くれぐれも今の時代の、海外旅行にいく余裕はあっても子供の給食費を払わない場合と一緒にしないでいただきたい)
この時すでに、先生を私たちは慕い始めていた。
                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

20年後の同窓会では連絡のつく人はほぼ全員参加した。
「田舎の粗野な暴れる事しかできないと思われていた私たちに本を読む素晴らしさ、詩を書く楽しさ、友を大切にする心地よさ、1人1人の個性の中にその人の良さを見出す天才のような先生に出会えた私たちは本当に幸せ者だった」というようなことを幹事が代表してお礼を言った時
しみじみと先生は次のようなことを話された・・・

自分にはずっと介護を要する子どもがいた。
夫婦で力を合わせてその介護をしていたのに、奥さんを悲惨な形で突然なくした。二人でもつらい毎日だったが、一人でどうしていいかわからず、一人子供を家に残して仕事に出ても手に付かず、正に途方に暮れ仕事などできぬつらい家庭環境だったとのこと。しかも子供は一人だけではない。
「明日どころか今日さえ生きていけないと人生を悲観し絶望の淵にあったのです、あの当時は。君たちと過ごしたあそこでの1年間が自分の心の傷を少しずつ直してくれ、また頑張ろうと思うような気持ちになれた。
家の手伝いが忙しくなると学校に出てこれない子が大半になるほど生活が苦しく、どの子を見ても皆やっと生活していることが手に取るように分かった。しかも小さいながら寝たきりの親を面倒みている子、兄弟の子を背負いながら授業に来る子、家に帰るとすぐ農作業や畑仕事が待っている、そういう状況で過ごしている君たちに教科書に出ているようなことを詰め込んではたして意味があるのか、何かしてあげられることはないか、・・・と悩む毎日だった。小さな君たち・・しかもほぼ全員がその肩に沢山の重荷を背負っていたにもかかわらず、毎日皆凄い結束力ではつらつと生きているのもものすごい驚きだった。こんな小さな子供たちにできて大人の自分にできぬはずはない・・・。君たちと過ごしたあの一年間があったからこそ自分も頑張ってこれた。お礼を言うのは私の方だ、ありがとう。
と、言うような内容だったように思う。
なにせ聞く私たちの方も涙を流し、鼻をすすりながら、時々あちこちで鼻を「ち・・・ん」とかみながら聞いていたので所々聞こえないところもあったが、大体そんな内容だったように思う。

先生はもう亡くなられた。
新聞に死亡記事が載った時には現役を退かれて二十年は立っていたろうか・・。
葬儀には式場にあふれるばかりの人たちが詰めかけ先生の人柄が偲ばれた。
私は葬儀には出席できなかったが出張先で手を合わせ先生の冥福を祈った。

今日はハマグリや二枚貝の話を書こうと、海にハマグリを取りに行った時のことを前置きにしようとしたら本末転倒。前置きが本文になってしまった。
着物の知識を待っていた方・・・堪忍やで。
次回はちゃんと書くので。

   ・・・・・・・・・・↑・・↑・・

実は夜携帯で誤字を直していたら途中から全部消えて、消えたまま保存されてしまった。
以前どう書いたかもあまり記憶にない。
思い出しながら適当に書いたので初めに読んだ方、若干内容や、書き方も違うかもしれない。書いていた時の熱意が消滅してしまいほとんど覚えていない。
なんとか書いたが、はじめと違うのは・・・ごめんなされ。