和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

菊の想い出

お盆といえば菊・・である。
で、着物の話ばかりだとちょっと飽きていたので、今日は菊の想い出を書こうと思う。



私の実家では私が小学校低学年の時にチューリップの球根を出荷していた。
嫁いだ家は菊を作って出荷していた。
お花というのは見ていても綺麗なのでさぞや楽しいだろう…と思われるだろうが案外大変である。

小さな苗から育て、脇芽(葉っぱの横から出てくる小さな芽である。真っ直ぐに育てる時はこの芽を小さなときから摘むことを繰り返さないといけない。)を取るのは中々骨の折れる仕事である。強い風に倒れないように・・・雨が降らないと水を掛けないといけない。又、虫から守ることもしなければいけない。又鳥からも保護しないといけない。次々と出てくる脇芽を丁寧に取りながら花だけでなく葉っぱも綺麗に生えそろえてあげないといけない。ほったらかしていたら売り物にはならないのだから。
雪が消えるとすぐ始まりしかも夏の炎天下の作業が多いのである。

そんな大変な思いをし何とか摘む時期が来ても高く売れるかはその時に拠るのだ。
例えばお葬式が沢山あったり、お盆の時であったりすると案外そこそこさばけるが全く売れない時もあるのだ。
大手の栽培農家はガラス温室の中で水や湿度、温度、日照時間まで管理しているので一番良い時期に開花を合せてくるのが可能なのに比べ、零細農家は天候任せの労働力ばかりかかる方法で見返りのない徒労仕事となることが多いのだ。



私の家ではおばあちゃん、舅、姑、私と四人で畑から摘んで来た菊を次の日の為の出荷に合せ下葉を取ったり、脇芽をつんだり、虫に食われていないかを確認しながら10本づつくくり、更にそれを50個束にしていた。大きなひとくくりが500本となる。菊の種類によりいくつかの束になりそれを「こも」でくるんで出荷していた。その500本ひとくくりで500円とか1000円とかである。つまり菊1本1円とか2円の世界なのだ。それが店に並ぶ時には1本100円、200円になるのだ。お店側も枯れたり売れなかったりすることを視野に入れての値段でもある。市場での仲買人の手数料もあれば儲けもある。勿論安いものだけではなく市場の値段で1本30円の物もあるにはある。それは品種改良の最先端の菊で色とか形が珍しいものでないといけない。そういう珍しい苗は高く、品質管理も大変で小さな栽培農家に手が出るわけもないのだ。

お盆も近い頃だったと思う。いつもなら絶対全部売れるはずであった。
前日、4人で蚊に悩まされながら出荷準備をした3000本近くの菊があった日。「高く売れるといいねえ〜」「お盆近くだからきっと高いよ」なんて話をしながら皆楽しみにしていたのだ。義父と義母は朝の4時前からトラックにつけ市場へ持って行っていた。私は家族の食事を用意したり、洗濯ものをしたり、子供たちを保育園に連れていったりと・・・朝はどんな家でも忙しい。

いつもなら保育園に連れて行く頃には二人とも帰ってきて食事をしているはずなのに其の日は中々帰ってこなかった。きっと市場が混んでいるに違いない・・そう思い気にも留めなかった。
父と母がトラックで帰って来た。中々家に入らない。
で・・・納屋に見に行った。
と、トラックに菊の山。
「どしたん?」びっくりして聞く私に母が勢い込んでしゃべるのは・・・


物凄い量の菊が出ていた。大手の菊の栽培所がこの日を目がけて出荷したようである。
少しの菊などとても全てさばけないので、「持って帰ってくれ」と言われたと言う。
「と、いってもあんたがたも困るだろうから何とかこちらでさばいてやる。でも手数料も出ない金額になるのでただでいいなら置いていってもよい」と言われたそうである。父と母はもめた。母は菊が無駄になるのでお金にはならないけど置いていこう・・と。父はそんな馬鹿な事が出来るか・・と。すったもんだの末ただでもいいので置いていこう・・となった。持って帰ってもその沢山の菊の処分に困るだけである。
其の時係りの人の言葉。
「手数料代わりに包んであるこもはおいていってくれ」と。
父が切れた。温厚で静で大声をあげたのを聞いたことのない父であったのだが、母の留めるのも聞かず全てトラックに載せ帰って来たのだ。

「しかし・・・これをどうする・・・」と。

ちょっとした花屋さんは全て市場を通してしか買わない。何かあった時にもめると後が厄介な事になるので。
しかし、畑へ持って行って捨てるわけにもいかぬ。
「だから私が言うたんや、市場に置いていくしかなかったんに」と母。
父は黙っている。よほど市場の人の物言いに「クッ!!」ときたに違いない。
トラックから花を下ろすこともできない。
聞いていて何だか私まで市場の人の言葉に憤然とした。
安くても、多くてもなんとかさばくのが市場の人の仕事ではないか?
それでいつも自分たちの手数料を取っていたのではないか?
父の怒りまでが自分にスッと移って来た。
しかし何とかこの花を処分しないといけない。
夏の暑さにすぐ枯れてしまうに違いない。
しかも次々に花は開くのだ。切らないといけない菊の花が畑にはまだまだ一杯あるのだ。
もたもたしている暇はないのだ。



私は一カ月分の新聞紙をザパッと水につけ菊の束の上から広げて掛けた。
そしてこもをかけてバックを助手席にのせた。

「今日はものすごく暑い日や。おかあさんもおとうさんものんびりしてればいい。」
と運転席に座った。
「あんた、どこいくん??」と母がおろおろして聞いた。又市場の人とかけあうのかと思ったらしい。
「此の花をできるだけ売ってくる。待っとって。子供の保育園終わるころには帰る。」
そういって唖然とする二人を置いて花の小売りに出たのだ。
勿論あてなどこれっぽっちもあったわけではない。
ただ実家の母と幼稚園の私は野菜を売りに一軒一軒売り歩いた記憶があっただけ。
母は何度も何度も頭を下げ理不尽な物言いをして値切る町の人たちにそれでもお礼を言いながら茄子やキュウリやトマトを一つづつ売っていた。
一瞬母の姿がフラッシュバックした。
私にできるか・・・いやできるとかできないとかそんなことを言っている時ではない。
やるしかない。売るしかない。この3000本の菊の花をごみとして出すわけにはいかないではないか。
何より今まで水を掛けたり、草をむしったり、脇芽をつんだり、暑さの中消毒したりと、全ての労力まで無になってしまうではないか。

其の時の私は二十代の半ばあたりだったと思う。
こんな私だって若い時があったのだ。(笑)
綺麗な時とはいわないが、エネルギーに充ちみちて、正義感に満ち溢れ、頑張れば何でもできると信じていた時代でもある。


・・・・・・・・なんと此処までが書き出し。。。(笑)
やっと今からが本文さ。時間のある方だけ読んでちょ。



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              花売り娘ならぬ「菊売り姐さん」の一日



「任さんかい!!」と啖呵を切って勇ましくトラックを運転し家を出たまでは良かった。
しかし・・・あてなどあるはずもなかった。
3000本の菊・・1本1円で売れば3000円である。
いくらなんでも1本5円位にはなるだろう〜。
単純で何処までもお気楽な女だった。
今から40年近く前の話である。

まず人の多い所に行こう。
で、考えたのが当時一番マンモスと言われた団地だった。
これなら移動のガソリン代を考えなくていいではないか。
「私って天才!!」と。どこまでも馬鹿なのは今も当時も変わりない。
1000の世帯のうち、半分の人が買ってくれたって500の世帯。
花屋で買うことを思うと3本100円でもとっても安い。単純もここまでくればご愛敬。
ひゃあ〜お花が足りないかも…なんてことまで妄想し、知らず知らず笑いまでこみあげていた私。


道の端にトラックを止めて声を大にして叫ぶ。
「菊の花はいかがですか?とっても安い。何と3本100円!!」
家で首尾を待つ父や母の事を思うと恥ずかしいなどと言ってはいられない。
少しのお金にでもしないと・・・必死である。

ところが・・・
人生そう甘くはない。(笑)
時間はたてど花は一向に減らない。

団地は駄目や。
皆花を飾ると言う習慣がないのだ。
たまにお花の好きな方がいても「菊」は不要なのだ。
バラとか百合が欲しいのだ。
1時間くらいいても50本も売れなかった。

発想を変えた。
愚図愚図としていたら菊は暑さの為皆枯れてしまう。

田舎に行こう。
仏壇がある。
墓もある。
田舎ならトイレに菊の1本も飾るだろう。
百合でないと・・とか、バラでないととは言わないに違いない。
一軒の家で10本位は捌けるに違いない。
一部落では無理だ。いくつでも廻ろう。

遠い海沿いや山沿いの花屋のないような田舎に行った。
誰も知らないような所に行って兎に角一軒一軒回った。
一挙に売ろうとするから無理があるのだ。
気持ちを込めて回らせてもらった。


一縷の望みを託して移動し続けた。
もう既に自分がどのあたりにいるのかさえ分からないほど移動しながら回った。
「こんにちわ、仏壇のお花はいりませんか?」
「こんにちわ、お墓のお花はいりませんか?」
一軒一軒回った。
胡散臭そうにも見られた。
いいのだ、何とでも思ってくれ。開き直ってもいた。
3本100円などと強気な事を言っていられないくらい気温が上がり菊はドンドン萎れていく。
5本100円にしよう。
10本300円にしよう。
50本なら500円でもいいわ。
足は疲れ、勇ましい気持ちは最初のかけらもなくなっていた。
何とか家にはトラックの荷台を空きにして帰りたかった。
それでもトラックの荷台の半分くらいの菊がなくなったころだろうか。
もう私自身が疲れ切っていたし、諦めかけてもいた。

ある部落で一人のおじさんが私に聞いてきた。
「あんた、何処の人ねん?」
金沢から来たというと
「生まれは?」と聞く。
私は実家のある村の名前を言うと
「ほう〜・・・あの村の何と言う家や?」と。

何なのだ。どこの誰でもいいやん。
でも正直に答えた。
ちょっとの嘘もこの人の目は見抜くに違いない。
昔の村の人は素姓の知れないよそ者をとても嫌うのだ。
すると突然・・・
「しのちやんの子か?」と。
はい、「私の母はしのです」と答えた。

なんとその場にいた人たちが母を知っていた。
小学校の時の同級生やった・・とか、
母と同じ在所の生まれやった・・とか、
母の兄と同級生やった・・とか、
母の弟と兵隊仲間だった・・とか、
挙句は母の実家の向かいの家と親戚だ・・とか。

そこは母の住んでいた部落があった校下だったようだ。
恐る恐る2本とか3本とか言っていた人たちに勢いが付いたようにさえ見えた。
一挙にさばけた。
「墓にももらおう」
「隣のばあちゃんにもあげるわ」
「しのちゃんは元気か」
「どこかしのちゃんの面影あるわ」

いろんな方が沢山買って下さった。
「あんた、隣村行って村長にわしの名前を言うまっし。皆買ってくれるわ。」
とまで言う人がいた。そこまで厚かましくはできぬ。
ワイワイとにぎやかな中で沢山捌けたので私も張りつめていた気持ちが軽くなっていた。

まだ300本近く残っていたが後はたかが知れている。
皆ゴミに出そうかとまで言っていたのだから。

300本近くの萎れた菊を乗せ実家の墓所に向かう。
まずは実家の墓に参った。そして次はお隣の墓、あの亡くなったおばちゃんの墓、というように順々にお花を挙げながらお参りをした。

お参りしながらも思う。
母には一応話をしておかねばならぬ。
しかし・・・ちょっとためらってもあった。
母の全く知らぬところで母の名前を出してしまったことに対する後悔。
愚図愚図とためらいながらも、やはり話さないといけないだろう。
それに、お花の小売りをしていたことを知ると母を悲しませるのではないかとちょっと心配でもあった。
一軒一軒の小売りが如何に大変で如何に辛いものであるかを母が一番知っているので。
母にだけは知らせたくなかった、又知られたくなかった、というのが本音だった。

しかし言わぬわけにはいかないだろう。
どんな形で母の耳に入るかが分らぬ。
人に言われるなら自分で先に言うべきだろう。

母に大筋を言う。そして謝った。
誰にも迷惑を掛けたくなくていたのに、期せずして問われて答えてしまったことを。
まさか母の名前であんなに反応があるとは想像もしていなかった。
でも母の名前のお陰で沢山捌けたのだ。
母の名前を出したことをちょっと後悔もしていたし心底申し訳ないとも思っていた。
それを素直に謝った。

母は「あの辺一帯はどの人も何処に嫁に行った誰それ・・」で皆通じるのだとも言った。
狭い土地柄である。
「母さんの名前位で役に立つならいつでも〜♪」
とおどけて答えてくれた。ちょっとほっとした私であった。


バタバタというトラックの音を響かせて家に帰ると義母が家から飛び出してきた。
そして荷台に菊の花がないことを見て
「何処へ行って売って来たん?」と。
多分一日中、私がトラックの花をどう処分するかと気が気でなかったのではなかろうか。
心配性の義母でもあったから。

ナイロンの袋に入れたお金を義母に渡した。
「色々な所〜」と。
義父は居間にいて
「ご苦労さんやった」と一言。
「楽しかったよ、結構」と私。
嘘ではない。本当に其の日の1日で私が得たものは大きかった。


実家の母は帰り際に
「嫁いだ家の為に一生懸命になるのは当たり前。力になってあげまっし。」
と私には笑って見せた。
だけれど母はきっと其の日、私の苦労を思って眠れなかったに違いない。
私もまた、眠れないであろう母を思いながら其の日を過ごしていた。
私にとって気丈ながらも、本当に優しい素晴らしい母であった。



今日はその母の初七日である。
何かちょっとでも母の思い出にまつわる話を書きたかった。

長い文を最後まで読んで下さりあんやとね。
皆さんよいお盆休みを過ごしてたいね。