和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

置賜紬(おいたまつむぎ)

山形県米沢市長井市白鷹町で生産される織物を総称して置賜紬(おいたまつむぎ)という。米沢紬、長井紬、白鷹紬、米琉、紅花紬などがあり、どれも糸を先に染める先染めの織物である。

置賜紬の始まりは八世紀にさかのぼると言われているのだが、一大産地として土台がキチンと出来上がったのは江戸時代中ごろ、上杉鷹山が藩主だった頃。この十代藩主上杉鷹山が養蚕や織物を奨励し東北地方で一大産業を確立したのである。

今回はこの上杉鷹山の事と紬の事をちょっぴり書こうと思う。


いくつかの伏線はあった。
「献上博多織の技と心」という人間国宝・小川規三郎氏の書物を読んだ時に「糸割符制度」についてかなり手厳しい批評があった。実はその時から私の心にかかっていた。これは以前チラリとこのブログで書いたと思う。


献上博多織の技と心

献上博多織の技と心


「糸割符制度」というのは江戸時代生糸を輸入する為に特定の商人に与えた特権で糸割符(いとわっぷ)とはこの特権を証明する札である。当時は生糸は中国から輸入する重要な輸入品で外国船の貿易利益の独占を排除する目的で作られ1604年堺・京都・長崎のちには大阪・江戸を加えて五か所の商人に与えられていた。勿論最初の外国船の利益独占を排除することが目的ではあったのだが、徐々にこの特権を持った商人たちだけの利益と化して行き生糸の値段の高騰へと繋がって行った。江戸時代はこの制度が何度か解散、復活を繰り返しながら最終的には廃止となって行くのではあるが、織物や染め物の本場京都でさえ生糸が中々手に入れにくなって行くいわば絹がとてつもない贅沢品となり何度も奢侈禁止令がでるのもこういうバックグラウンドがあったのである。


話を戻すと小川氏はその本の中で博多の商人にはその特権が与えられなくて長崎の商人たちにその特権が与えられたことに言及されていた。それまで知らなかったことなので書物を読みながらこちらまで大いなる義憤を感じたのも事実である。

さて、その糸割符制度が有名無実化していく一端であるが山形米沢藩が殖産の一環として推奨しそれが実を結び国内の生糸の生産量が増大し、輸入生糸に頼らなくてよくなった事が大きく影響していくのである。

此のあたりの事を知るにつけ上杉鷹山の事をもう少し知りたくなっていたのである。
私は名前程度しか知らなかった。

折しもある外国の確か、F1 のレーサーの人だったかが優勝し一番尊敬する人を聞かれた時に「上杉鷹山」を挙げ、世界各国の記者団の中の日本人記者すらも名前しか知らなかったという事を何かで読んだことがあり一度鷹山の伝記などを読んでみたいと思っていた私だった。

鷹山が米沢藩の藩主に着いたころ、藩は存亡の一大危機に面していた。藩の借金は大きく膨れ上がり何処からも借りうけることのできない破産状態であった。しかも領民は皆疲弊困憊し村や田や家を捨て逃げていく者たちが大勢いたし、武士に至っては約束された禄高すら藩からはもらえぬ状態で内職に従事するしかない有様であった。

そんな時に藩主となった鷹山は家老と共に遠大なる計画と地道な毎日の節約と意識改革などを行って徐々に藩を立て直していくのである。

遠大なる計画とは「漆」「桑」「楮」の百万本の木を植え三十年後に一大産業に育てること。地道な日々の節約はそれまでの習いである家中の「一汁三菜」を廃止し「一汁一菜」となすこと、勿論民百姓は既にそれさえも口に入らない状態だったはずだが、彼らだけでなく武士も商人も全てである。もう一つは衣服を「絹」を辞めて「紬」にすること。勿論率先して藩主もである。大いなる反発があったようだが断行したようだ。反対勢力に藩主として力が足りぬと幽閉される切羽詰まった一時期もあったようだ。

漆の木は「蝋」をとる、「桑」は生糸を、「楮」は紙を。
冷害地域なので田畑が天候で作物が中々安定した生産量を搾取できない藩ならではの一大殖産計画だったようだ。

漆の実のみのる国〈下〉 (文春文庫)

漆の実のみのる国〈下〉 (文春文庫)


このあたりのことは藤沢周平氏の書を読んでいただければ。
ただし読んでいて思ったのは最初の書き出しから遠大な構想だったように思われたのだが、最後はちょっとあっけなかった。あとがきを読んで納得。藤沢氏は途中病に倒れやっと書きあげられ此の時に亡くなられたようである。私自身の感想は「上・中・下」のつもりで読んでいたのが「上・下」で終わったような感覚だった。それでもいろんな角度から実に克明にそしてあくまで史実に忠実に吟味しながら書かれているのが読んでいても分る。この方の歴史小説はいつも片手落ちがないのがいい。
私利私欲を捨てて領民の生活の為に率先して改革を断行していく様は実に美しい書物であると思いながら読んでいた。

ちなみに江戸時代の植樹する推奨の草木は「四木三草」といい

     四木は「桑」 「漆」「楮」「茶」
     三草は「紅花」「麻」「藍」

であった。これは一般知識としてもさることながら着物を勉強する方には必須事項。絶対に覚えないといけない。

東北の片隅で化学染料に押されながらも現在でも紅花染めがよみがえり、茜や揚桃、刈安などの植物染料で地道に染めそして丁寧に織られる趣のある紬が多い。、絣織りが美しい長井紬、琉球の影響を色濃く残す米沢琉球、男性用の無地の紬、又袴地など脈々と現代まで続いている。ぜんまい織、科布、和紙とのコラボの紙布織りなど、創意工夫の工房も多い。
名君の藩政改革から始まった置賜紬の産地は現在でも幅広く工夫を凝らし生き残りをかけて地道な努力を惜しまない。
確かに安いもの、手頃な物に流れる昨今ではある。
しかしながら、少なくても着物は我が国の民族衣装である。
せめてどういう経緯で現在に至っているのかくらいは着物に携わる者として勉強しておいて無駄にはならないはず。



着物検定一級を受ける方は和装組曲は今年は二人の予定。
その方々はせめて目を通されておくことを勧める。
又、今年は二級を受けられる方でも目を通されると又新しい着物の世界が見えてくるのではなかろうか・・

着物は身を飾るだけのものと言う認識はもはや捨てましょう。
多くの人の弛まぬ努力とひたすらに繰り広げられてきた試行錯誤の中で一つの製品として歴史の中で作られてきた貴重なもの。
私達もたった一枚の着物でも大切に使いましよう。謙虚に使わせていただきましょう。
着物に対しても先祖に対しても、着物と言うものに掛けてきた思いを一国民としてもしっかり受け止めていきたい思った次第。

一階の書架に出しておくので興味のある方ご覧あれ〜♪





◇♦♫◇♦・♪*:..。♦♫◇♦*゜¨゜・*:..。♦♪ ♦♫◇♦・*:..。♦♫◇♦*¨゜・♪*:..。♦◇

◇♦♫◇♦・♪*:..。♦♫◇♦*゜¨゜・*:..。♦♪ ♦♫◇♦・*:..。♦♫◇♦*¨゜・♪*:..。♦◇

おまけ・・・

散歩の途中に突然あたりがかき曇り・・激しい雨や雷にあった。
軒下で雨の止むのを待ち歩きだした私の目に映った鳥・・・
雨でぬれた羽を「ブルッ!!ブルルン〜!!」とふるったオナガ



なんと其の尾長の尾羽・・・まさしく着物の図柄の鳳凰の尾羽に見えた。
オナガのあの真っ直ぐな尾羽が雨にぬれるとこんな風になるのだ・・・と。
正倉院鳳凰の原画となったように、当時の人と同じ感動を持ってこの一瞬を見られたような気持がして感動してしまった。

雨にぬれたのだが、すこぶる嬉しい日であった。