和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

三夕の和歌

三夕(さんせき)の和歌・・・というのがある。
三夕の歌とも三夕とも言う。

歌の最後を「・・・・・秋の夕暮」と結んだ三首の名歌である。
広辞苑を参考に簡単に解説をつける。


    ○ 見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ  (定家)

         見渡せば花も紅葉もない。
         この海辺の漁師の小屋のあたりの秋の夕暮れは。



    ○ さびしさはその色としもなかりけり槇立つ山の秋の夕暮れ (寂蓮)

         寂しさはどの色のせいだというのでもない。
         杉や檜(ひのき)が立っている山の秋の夕暮れは。
                  

    ○ 心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ (西行) 

         ものの情感をを感じる事のない出家したこの身にも、しみじみとした情緒はおのずと実感される。 鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れは。 


三首とも新古今集に所収。


どの歌も際立った色が無い無彩色の世界を読んでいる。
そしてその情景の中に色のある世界よりも心を打たれる様に感動しているのが伝わってくる。
美と言う物が色と密接に関係している、まさしく色そのものの中に美を見出した平安時代とは異なり、見る人の心の内にこそ美が存在しているというとらえ方といっても過言ではないだろう。寂寥感、静寂さ、そして無彩色の中でも人は心打たれ感動しその素晴らしさを愛でられる・・・という正に幽玄の世界まで到達した歌でもある。
鎌倉時代と言う武士の時代の台頭という時代背景もあれば、仏教思想背景も大いに関係するのであろう。


これが何故着物に関係するか・・というと
「浦の苫屋」「槇立つ山」「鴫立つ沢」が着物の柄に使われているのだ。
三つ同時の時もあればバラバラの時もある。
着物は華やかで華麗で雅である・・・と言うのは着物がそういう存在である時代に生きている人たちの摺りこみで、そうでない時代もあったのだと知ってほしいと思い今回取り上げさせてもらった。江戸小紋の粋な渋い技の世界とも又一味違うのだ。

ただ表現の仕方としてどんな加飾方法をとるかは色々あるので今回少し触れておこうと思う。
たとえば・・・・京友禅・・

かなり色があせている。大正末〜昭和の頃のもののようだ。
今の時代のものとちょっと雰囲気は違う。今の物はもう少し繊細&エレガント。
でも糸目糊を見ていただくのが目的なのでご容赦を。
糸目糊といって白い糊で隣り合った染料が混ざらないようにしている。
赤い牡丹を見ていただければ白い輪郭がわかろうかと思う。
左下の牡丹には輪郭として金が使われている。時には刺繍で縁取られているものもある。
こう言うように同じ糊を使って書いても京友禅は華やかで何処までも雅である。

一方、加賀友禅・・


これは昭和の半ばのもの。
同じく糸目糊がはっきりしている。
でも金とか刺繍とかはあまり使われていない。
京友禅と大きく違うのは「先ぼかし」といって葉や花の中心に行くほど色が薄くなっている。
又葉には「虫喰葉」(わくらば)といって虫に食べられたりしている葉を必ずと言っていいほど添える。
京都の友禅の何処までも華やかで雅なものと一味違い、写実的でどこかひっそりとした趣を大切にし気持ち控えめ感がある。加賀五彩といって藍・臙脂・黄土・緑・紫(もしくは墨色)という独特の色使いもある。

そして・・・最後にこれ・・・東京友禅・・


本来、京友禅加賀友禅と違い東京友禅は寒色系の色使いのものが多くしかも色数が非常に少ない。
あっさりと地味に、どこまでも粋でちょっとクールで垢ぬけた雰囲気を持つ。

さてさて・・・今日一番に言いたかったのはこれ・・・

糸目糊だけで模様を描いたもの。
実に渋くて地味である。
京友禅などに多く見られるといわれている。
「三夕の和歌」の絵柄などは正にこういう書き方が一番いいのではないかとついつい思ってしまう。
しかし、ひっそり感のある糸目糊だけの方法をとったところで地色が激しい・・というのもある。
昨年だったか、一昨年だったか・・真っ赤な大振袖に近江八景の八名所をこの糸目糊だけの書き方で書いた渋い振袖を見た。
論博物館所蔵のものでとても古いものであった。
これに関しては多分ブログで既にちらりと触れているはずなのでもう触れぬ。

ここまで書いたのでもう一つ・・・・
糸目糊で模様を書くと細い静かな線が中心となるのであくまで端正で静寂な雰囲気を持つイメージなのだが、なんと
現在糸目糊で大胆な動きのある模様を書かれる方がいる。何年か前に人間国宝に指定された二塚長生氏である。
たまたまある方のご厚意により写真を撮ることができたのでお見せしたい。


亡くなられた方の遺品を整理していた東京のある方、沢山の着物を処分しようと思っていたのだが、なかでも地味な色合いでとても女性の着る着物の柄とは思えなかった。黒留袖である。念のため帖紙(←この言葉に関しては最後に触れる。)に印刷されている呉服屋さんに連絡。電話を受けた呉服屋さんが水際でその処分を止められた・・・といういわくつきのもの。東京の方が金沢で誂えられたもの。
この絵柄は多分神社の狛犬。そして書かれた絵柄は糸目糊を太く大胆に使い動きのある迫力の絵となっている。
繊細で端正な糸目糊の技法を大胆に縦横無尽に駆使されて友禅に取り入れられる試行錯誤の過渡期の作品らしい。

着物は華やかで雅で何色もの色使いで金銀刺繍で加飾されて何処までも人の目を引く・・と思っていらっしゃる方が圧倒的に多い。
でも実は華やかさも雅さも色も最小限にしても、その美しさと存在感を誇示できる着物があるのである。
着る人がどういう目的で着るのか、どういう装い方をしたいのか、また「美しい」と言うことを何処に持ってくるのかと考えるかによって随分違うのである。
着る方が、着物と言う物に対して単に着飾るためだけではなく、自分の心の中にある「美」というものをどうとらえているのかと言うことの表現の一つでもあるわけで、見る側も同じようなステージに立たないとその方の思う「美」と言う物を知ることは難しいということにもなるのではないか。



どういう色を着るのか、
どういう柄を着るのか、
どういう自分を演出するのか、
どういう中に美をみいだすのか、

そして最終的には、
何を美しいととらえるかという着手の美意識と、それを見る側が着手の意識を理解して、見る人の心が決める美しさでもあるのだと言うことを知ってもらいたかった。
いつもブログで触れることだが、私は着物を着る人とそれを見る方が本当の意味で同じステージに立たないとその美しさは分からないのではないか、と思うのである。

何を美しいととらえるか・・・
本当の美しさとは何なのだろうか・・・

ネットで安いものが手に入る時代ではある。
しかし、年齢が行けばいくほど枚数はいらぬ。
極端な言い方をすれば、たった一枚でいいのだ。
本当に自分が美しいと感じるものを手に入れてほしいと思うのである。
勿論値段ではないのだ。皆さん判断基準を値段に持っていく・・だからどうでもいいようなものに物凄い値段が付けられ、それを手に入れる・・という失態を冒すのだ。
若さや溌剌さ、綺麗さが失われていく老年に差し掛かる時こそこういうことを真剣に考えてもいいのではなかろうかと思った次第。
綺麗さを失っていく時こそ、綺麗さではなく「美しい」と言うことを考えてみたいと思ったのである。

錦秋の秋・・という表現がある。
地錦という言葉もある。
だれしもがこれからの紅葉の美しさを愛でる秋だが、秋の夕暮れ時の墨絵のような寂寥感の景色にえも言われぬ美しさを感じた方々の残された「三夕の和歌」をふっと思い出した私である。







          ※ 一口豆知識 ※ 
「帖紙」と書いて「たとうがみ」という。
日常的には「たとうし」と言っている。
着物などを畳むときに使う「たたみがみ」が「たとうがみ」に変化したもの。
数え方としては私は「一枚、二枚」と言ってはいるが正しくは「一帖、二帖」(いちじょう、にじょう)というらしい。
参考までに・・・・