和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

下褄模様と尾藤家11代当主夫人の着物

着物の柄つけには色々時代よって変化してくることは以前何度かブログに書いてきたこと。
「肩裾模様」と「片身替わり」

図の右の「肩裾模様」は室町から桃山時代にかけて流行した様式。
肩と裾に色鮮やかな模様を配して着物の中ほどにはほとんど余白とし、摺り箔などで加工されたものが多いとのこと。能装束にこの形が未だに残っている。

一方左の図の「片身替わり」は桃山時代に流行。
背縫いを挟んで左右全く違う模様が表わされているのが特徴。
現代でも度々見かける。
元々は貧乏下級武士の二枚の着物を繕って一枚にして用いた生活の知恵からくる。

「江戸褄模様」

江戸後期、遊郭や町人女性に流行したもの。
裾引きの着装なので左右対称の柄付けで今の黒留袖の原形とも言うべきもの。


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ちなみに我が家の黒留め袖は表だけでなく裏にも左右対称の図柄。
以前裏もちょっとお見せした。


「島原褄」


江戸後期に京都の遊里・島原で流行した模様。
模様が高い位置にまであり胸のあたりまで広がっている。
これは江戸褄とは違い現在見られない。
裾引きの着装なら見事に映えるのだが、現在のようにおはしょりを取って着る場合には柄が帯とおはしょりで全くつながらなくなるためではないかと思う。

「裏勝り」


これも江戸後期流行した柄で表は無地。
裏にこのように柄がつく。
引きづりで着た場合に柄が美しく見えるように作られたものでまさに表より「裏勝り」。
裏に贅をつくしている。

このあたりまでは何回かに分けて今まで触れている。
いわば前置き部分。

今回は新しく

「裾模様」

左の図が「裾模様」
18世紀半ばから腰から下に模様配する「腰模様」が現れ
18世紀後半にはこの「裾模様」が現れた。
裾を引く着装が定着したためもあるが武家女性、町人の粋の美意識を反映したものとか。

右の図はこの「裾模様」と「江戸褄模様」から現在に引き継がれている「留袖」柄。
案外現在は右のような柄行きが圧倒的。


今日は面白い柄行きをお見せしたい。
先日行って来たちりめん街道の尾藤家。


そこに展示されていた。
まさにそれが「下褄模様」であった。

柄は上前にあるのではない。
下前にあるので誰にも見えないのだ。
着ている本人しかわからない。
上記の「裏勝り」ですら引きづりで着た時に裏が見えるので人目につく。
しかしこれは引きづりで着るには左右対称になっていない。
つまりおはしょりをとって着る時代の物。
着物を勉強していてもこの本物を中々見たことがなかった私。
名前しかまだ知らなかった。
人に見えないところに贅と粋をつくした本当の通の方の着物ではなかろうか。

見てきました。皆さんにもと思い写真を撮ってきました。
先日の丹後の与謝野町のちりめん街道。
尾藤家の11代当主夫人の着物。


帯がかかっていて上前が見えぬ。
係りの方に暫し上前を持ってもらう。

下前の褄に柄がある。
ただ本当の衽だけでなく右前の下にも模様がかかっているので歩くとちらりと見えるかもしれぬ。
地模様は江戸小紋
渋すぎ〜。
当主夫人が幾つの時の物かはわからない。
しかし、面白い。

紋が大きくてとても存在感がある。

美しい今風のグレーというより、実際の色はこの色に近い。
少し朱がかった墨色と言ったところ。
日光で退色しているがとても美しい色だった。

衣桁には左右に揚羽の紋が入っている。
着物の三つの紋と同じ。
つまりこの衣桁はこの当主夫人がおこし入れの時の花嫁道具の一つだった可能性が高い。
衣桁の左には正紋、右には陰紋。

折角なので、尾藤家の中をいくつか写真をご紹介しよう。
11代当主夫人の持ち物だとか。


この帯を何度も撮ったのだがガラスの反射と日光の具合でどうしても上手くいかなかった。
勘弁してくだされ。
物凄く素敵な帯だった。
あの絵の緻密さと可愛さと何とも言えぬ雰囲気が残っている。
物凄く感動。

屋敷も物凄く贅沢なのだがこんなものが私の目を引いた。

襖の取っ手が「千鳥」である。可愛い。

家の高い部分に家紋が入っている。しかも金。
丸に十の字・・いわば「轡十字」(くつわじゅうじ)
あの島津家の紋と同じ。

物凄い余談だが、島津家は最初「十」の字だけの家紋だった。初代は甲冑に「十」の字だけ確認されているとか。
薩摩に上陸した宣教師がこの「十」の字を見て十字架をまず連想し驚いたらしいことも記載があると何かで読んだことがある。秀吉の「バテレン追放令」が契機となり島津家は十に丸をつけてキリシタンに間違われるのを避けたとも言われている。
「轡十字」は馬の「くつわ」を文様化したもので尚武紋とされているのだが島津家は「まるに十の字」として知られているのはそんないわれがあったことから。
話を戻そう…。

ここの尾藤家は武士の家系であったのは間違いないとの説明。
土蔵の上には籠があった。

大福帳とともに・・

御朱印の手紙に「花押」。係りの方の説明ではこの尾藤家の花押とか。
写真を回転させるが上手くいかぬ。時々私のデジカメの写真がこうなる。
私のパソコンでは正しく見えるのにブログにアップすると回転してしまうのだ。
なぜかは分からぬのだが、回転させて保存するのが上手くいかぬのだろう。
段々上手になると期待してくだされ〜。(どうしてなんだろう。。。。どこかやり方が悪いのだ。)
   ※【追記】  ↑ ↑ これを書いたのが7/22
              なんとできたのが7/23
           悔しくて色々やっていたら出来た(笑)


なんと長押(なげし)の杉留めが「鶴」

こちらは「松」

普通「檜垣」模様は座敷と決まっている。

なのにこのおうちではそこらじゅうにふんだんに使っているのも凄い。
こちらはトイレの天井。

もっとも私が楽しかったのは押し入れの中の布団。

係りの案内の方は当時のまんま、と。
でも流石にこの布団を写真に撮る方は今までいなかったと。
とっても私は興味深かった。
だって昔は着物の古しくなったものを布団にした。
だからこの綿の布団は嘗てはどなたかの着物だったに違いない。
この布団は誰のものかはわからないのだが、たとえ奉公人が使っていたとしても、その着物は奉公人と言うことはないはず。実際押し入れは奉公人の部屋ではなかった。奉公人は別の建物となる。

無地のもの・・・縞の物・・・これは男物に違いない。
上から三番目は「弓浜絣」に雰囲気が似ている。
その二つ下には「久留米絣」にもみえる。
久留米絣」といえば重要無形文化財
ちょっとしたものは百万はするだろう。
この真っ白の絣のを作るとしたら、綿のものとはいえ今では高くて手が出ない代物。
無造作に布団になって、しかも押し入れにポンと入れられ日の目を見ないのも何処か愉快だ。

そして最後ですが面白い床を。
まずは渡り廊下を行くと・・・

なんと滑らないように床がこんな感じに・・・

今でいう年寄りや子供に優しいつくり。
お風呂が帰りなどに濡れた足でも滑らないように工夫されている。
今時こんな優しい日本家屋は中々ない。
このおうちではトイレの戸や洗面所の戸までにふんだんに手の込んだことをしている。

そしてトイレもお風呂場の近くに作ってある。

トイレまでが情緒がありなんとも素敵でしたよ。
お風呂場の床は単なるタイルではなくて「亀甲文様」。

同じ部屋にはこんな柱。松、竹、梅・・と。

琵琶床まで付いている。

そうそう・・・最後になりましたが、11代当主夫人は何時の頃の方か・・・。
11代当主は明治18年に生まれている。
10代当主が生糸縮緬業のかたわら丹後銀行頭取を務められた方。

旧尾藤家は1863年(江戸末期)に着工。1865年完成。
明治大正に蔵、座敷の増改築、昭和3年洋館併設。昭和5年現在の住宅の姿となった。
今日紹介した着物は11代当主夫人のもの。
決して華美ではなく凄い自己主張するでもなく、何処とはなしにひっそり感としっとり感が見え隠れする。
これ見よがしは一切ない。
そしてあくまでも粋に贅をこらしている。

とても素敵な方だったように思われますよね。。。。

案内係りの方、本当にありがとうございました。

まるまる二時間余りを私とマンツーマン。楽しゅうございました。
聞けば金沢とは縁のある方、人のご縁とは面白いもの。
色々とありがとうございました。




            【ご案内♪】

先日の土曜日十二単の第三回の講習会が和装組曲で行われました。

暑い中参加いただきありがとうございました。
今回は十二単を着せつける時の主に衣装を着せつける難しい「手さばき」の体得でした。
専門的すぎるので詳細はブログには載せないことにしました。
興味のある方は、和装組曲のHPに近日中に載せる予定ですのでそちらの方にてご覧ください。

色々な方からの差し入れのご配慮、感謝申し上げます。
美味しくて完食いたしました。ありがとうございました。