和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

廣瀬染工場見学〜♪

東京二日目の午後・・
場所を渋谷から中落合に移動。
    
        廣瀬染工場見学


とにかくびっくり。
東京でこれだけの敷地を持つおうちがあるのだと。
自宅だけでなく敷地内に染工場を持たれているのだから当然といえば当然か・・

座敷に案内されてまたびっくり。
まさに江戸小紋制作に従事される方はこんなところにまでこだわるのだ。
又、こんなことに拘れる位の感性を持っているからこそ良い作品も作れるのだろう。
雰囲気としては左上に雲・・右下は網を干している風景で「網干」(あぼし)

武士の裃も展示してある。

裃の後ろも話のタネに・・・袴の中に入れる前はこんな感じ。
時代劇で後ろ姿はきれいに左右に大きなタックをとって袴の中に入れられているのだが、多分本来の姿を見られた方は少ないだろう。参考になれば。

また、袴の後ろ姿・・・テレビで見られてもあまり記憶がないかと思うが、
実は袴の腰板の真ん中にも家紋が染められている。

つまり裃姿を後ろから見ると、背中と腰に家紋がある・・はず。
今度時代劇を見られたらご覧あれ〜

この小紋の柄は「鮫」小紋、ちなみにこの家紋は「左三つ巴」。
全神社の三割がこの「左三つ巴」と言われるくらいに神紋に多い。
龍神信仰と結びついて水を呼ぶとされ、雷よけ、防火の水呼び紋として神社の瓦に案外載せられている。
いつか神社に行かれたらちょっと気を付けてみてくだされ。

      話が進まないので・・・急ぐ・・・(笑)・・ピューッ〜・・・・
神田川沿いでは昔は染工場が軒並みあったそうな・・
今では数件、寂しくなりました・・と語るのは廣瀬安男さん。

この日は江戸小紋の制作現場にお邪魔した。
まずは簡単にレクチャーをうける。

ルーツは室町時代。当所はもっぱら武具である鎧の革所や家紋に用いられたが、室町後期には武具の日常着、衣服にも染められた。技術的に発達し広く普及したのは江戸時代初め。武士の礼装である裃の染めとして行われるようになったため。江戸中期には町人文化の発達とともに身分や時代を超えて一般の人々に愛されるようになり、今日に至っている。
多くの柄が有る中で「鮫」「格通し」「行儀」の三つは江戸小紋三役といわれ格が高いものとされてきた。
それは徳川御三家が使っていた柄であったため。この三つの柄に関しては小紋といえど、家紋を付けて着れば準礼装となる。
武士が家を表すために着た柄(留柄)とは別に、町人達は遊び心満載で色々な柄を楽しんでいたようである。見せていただいたのは「家内安全」「七福神」と漢字を彫ったもの・・・のこぎりやトンカチの大工道具を彫ったもの、日用品、縁起を担いだもの、十二支の干支を彫ったもの・・・・遠目には無地に見えるがじっくり見ると面白い柄が満載。
私は以前何かの雑誌で小さなバイオリンが綺麗に整列している江戸小紋を見たことがある。こんなものまで柄になっている・・と驚いたと同時に物凄くきれいだと感動したことがある。


   「これだけ細かい柄は染められまい?」と型紙の職人が細かさに挑戦すれば・・・
   「なんのなんの・・綺麗に染めたぜ!」と染め職人。
   「おっ!やるねえ〜じゃあこの細かさはどうだい?」と更に細かい柄を彫ってみる。
   「なんの・・・やってやろうじゃあねぇか〜」と受けて立つ。

心意気と心意気、意地と意地、技と技。
競い合って来た歴史が美しくどこまでも細かい小紋柄となって残って発展してきたのだ。
江戸の町人の心意気がこういう技を遺したといっても過言ではなかろうと思うのだが、言い過ぎだろうか。

ちなみに加賀百万石前田家は「菊菱」、徳川本家は「お召十」、土佐山内家は「青海波」、肥前鍋島家は「胡麻」、肥後細川家は「梅鉢」・・・・などなど、裃に染められている柄は決められていた。それを「留柄」とか「お定め柄」とか言われている所以。その裃に家紋が入る。必ずしも本家と分家は一緒ではない。むしろ少し変えている。だから裃を見ただけで何処の藩のどういう家かがわかる、と言うわけ。大名が江戸城に入るとき、双眼鏡でのぞき裃柄と家紋で言い当てて触れまわる係りの方までいたそうな・・・・「次なる御登城は、加賀藩家老本多様〜」とかなんとか・・・何かの本で読んだような・・・・は・は・は・・・〜・・お婆は見てきたようなウソをつく・・・(笑)

この日の説明は廣瀬安男さん、廣瀬雄一さん・・・・共に伝統工芸士・廣瀬雄望さんの御一門の方。
この方たちは嘘をつかない。キッチリと聞いてきましたよ。

まずは型彫の四種類の道具・・を見せていただく。
この道具で型を彫る。
江戸小紋の場合は伊勢型紙を使う。

    「江戸小紋」と言う言葉は小宮康助氏が1955年に人間国宝に指定されたとき、
     他の小紋と区別するために使われだしたためでそれ以前は「江戸小紋」と言う
     言葉は使われていなかったようである。ちなみに「江戸小紋」の人間国宝
     小宮康助氏と小宮康孝氏のみである。


その伊勢型紙とは、良質の手漉き和紙を何枚か重ね張り合わせたものに細かい模様を彫ってある。
その彫るときの道具が錐彫り、突き彫り、引き彫り、道具彫り、・・・と四種類ある。
皆彫師の方が自分で使い良いように手作りのものが多いとか。
ちなみにこの伊勢型紙の彫りでは次の方が人間国宝重要無形文化財の各個認定保持者)
   
   伊勢型紙錐彫り・・・六谷梅軒
   伊勢型紙突き彫り・・南部芳松
   伊勢型紙道具彫り・・中島秀行
   伊勢型紙道具彫り・・中村勇二郎
   伊勢型紙縞彫り・・・児玉 博

   伊勢型紙糸入れ・・・城の口みゑ

すでにどの方もなくなられている。参考までに。着物を勉強する方はこのあたりまでは押さえておきたい人名。
と言う私は、人に偉そうに言うだけ。いつも忘れる。六谷梅軒の錐彫りのことをいつもその方の名前「梅軒」と必殺仕置き人の藤枝梅安とだぶり「錐?」「突き?」とごっちゃになるのである。
そんなことが一瞬頭を駆け巡るが、その時は澄まして聞いていた。

何枚もの型彫の紙・・・
廣瀬家には六千種類近くの型紙があり、枚数にすれば二万枚以上にも及ぶとのこと。
型紙の部屋と言うのも見せていただいた。

三方の壁は何処から何処までぎっしり型紙及び見本を収納。

染め見本も充実している。

昔は企業秘密を盗みに来る人を防ぐため、見習いの方々がこの4、5畳の部屋に多い時で4人泊りこんでいたとか。
それほど染工場の方々にとってこの型紙は新しい型紙として大切な秘密そのものだった。
部屋の三方を壁にし入り口は一方向のみ・・というのも全て理にかなっている。
今は伊勢型紙を彫る人が少なくなって違う意味でまた大切で貴重なものになったようである。


なんと・・今回は人間国宝・児玉博さんの毛万筋を見せていただいた。

人間の髪の毛の細さの筋・・美濃和紙を四枚柿渋で張り合わせ細い筋を彫る。
ただしそのままでは切れるので所々竹の節のようにして繋ぐ。
四枚の和紙をそっと二枚二枚に剥がしその間に髪をいれる。
そしてまた四枚を一枚にする。その後竹の節にしていた繋ぎの部分を綺麗に切り取って行くのだと。
気の遠く成る作業。まつかって「もう・・・知らん」と捨てられる型紙はないのかしらん?
私だったら破棄される型紙が山のようになるのでは・・・何て思いながら一人笑って説明を聞く。

格通子、鮫、行儀・・小紋三役を始め沢山の小紋を見せてもらう。

「では、これから工場へ行って実際見ていただきましょう」
と言われた時は、あれも聞きたい、これも質問したいとドキドキ、ワクワク。
なにせ書物でしか見たことのない知識を実際この目で見られるのだから・・・

まずは江戸小紋の工程が分かりやすいように書こうと思う。
見せていただいた順番とは違うが廣瀬さんから頂いた東京都染色工業組合が出している東京染小紋のパンフレットも参考にさせてもらった。

ここでは武士の型紙に起源を持つ江戸小紋を主に。

、板を準備
   
    

    

    

    

   地震の時こういう板が一斉に落ちないのか・・と思うくらい何枚も天井に整理されている。
   この板は6.5mの板で往復すれば13mの反物一反ができる。
   この板の片側が薄く成っていていわば「剣先」と呼ばれるようになっていてギリギリまで反物を染めやすく考えられている。
      
      この板の剣先のところで柄がかすかに一旦切れるのでその柄の切れ目を剣先と呼ぶ場合もある。
      型紙をギザギザな形に彫るとこの剣先、案外分からなくなる・・と言う場合もある。
      例えわずかに分かってもそれをわからないような形で裁断するのは これまた和裁士さんの腕である。
      
      また剣先と言うのは着物の仕立てにも使う。
      襟・衽・前身ごろの三点が合うところで一枚の着物には左右二か所の剣先があることになる。
      
   
   
   
   材質は樅(もみ)の木である。
   表面に糊を何度も付けてあるので少し使う前に水を霧ふくだけで反物が板にくっつくようになっている。

、反物を板にのせ地張り木という長方体のちいさな木で真っ直ぐに丁寧に反物を板にくっつける。
   この時反物の両端をテープで固定する。

   

   だから本当の江戸小紋は反物の両端に模様が染められていないのだ。
   逆にプリントされた江戸小紋は反物の端まで模様がローラーで染められているのはそんなわけ。

   
  
3、反物の上に染めたい型を置きへらで防染糊を置いて行く。
   この時の防染糊は・・・米ぬか(赤ぬか7:白ぬか3)、塩、もち粉、などで各染屋に寄って多少ことなるし、工夫も凝らされてもいる。

   

   実際は糊が分かりやすいように活性炭を混ぜる事が多いとか。だから糊はグレーに見える。
   白ぬきの模様にしたくないとき、ここに染料を入れて色糊として使うこともできる。

    

   この作業の時に型紙の「星」といって左端の上下についている2か所の○印をキチンと合わせる。
   型紙がずれて行かないようにするためである。

   

    
、この反物を乾燥させる。
   この時張り板のまま糊を乾かす。
   多色の柄はここで繰り返し糊付けをするのだが、江戸小紋は単色使い。ただ反物の裏に色を置くときは表と同じ工程を繰り返さないといけない。二度手間を掛けていることになるので、同じように見えても裏の白い反物に比べ裏に一度色を引いてあるものの方が価格も高くなる。

、この反物を地染めする(通称:シゴキという)

   実際「しごき」をする部屋に移動する。
   建物は昭和の雰囲気を色濃く残している。
   こういう格子の戸に囲まれた通路は何とも情緒がある。

   

   乾燥した反物を板から外し染料の入っている地色糊を大きなへらで塗りつけて地色染をする。

    

    

    

    


   この時に使うへらがこれ・・・
   材質は板と同じ「樅」の木。
   
   この工程を普通「しごき」という。

   染料でしごきの過程を終わらせても染料が不要な場所につくことを予防するため「木くず」が染料の上にまかれる。
   この「木くず」も細かさや品質など色々種類や秘密があるのであろう。

    

    

、地色糊が乾かないうちに蒸箱に入れ蒸す。

   

   

   蒸加減は熟練を要する。
   何度で何分蒸すのか・・・
   パンフレットには90〜100度で15分〜30分とあるがここでは一時間近く蒸すこともあるとか。
   使う蒸箱にもよろうし、中に入れる反物の枚数、染料の種類にもよろう。染工場に寄って若干違うはず。


   雄一さん曰く・・
   「小さい時、悪いことをすると中に入れられた」と。
   「物凄く怖かった、真っ暗なので」と。
   私の小さい時は「土蔵」に入れられたのと一緒だ・・・(笑)

、蒸し上がった生地は念入りに水洗いをする。

   

   

  
   糊や余分な染料を落とすため丁寧に繰り返される。
   豊富な井戸水があるし、井戸水だと不純物が少ないから美しい仕上がりになるのだとか。
   一つのザルに一反いれる。
   ザルが幾つも並んで作業が進む。
  
、乾燥させ湯のしで巾を整える。
   丁寧に検品をして仕上げる。

という一連の作業となる。
これで一応の工程は終わる。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

でここで実際型置をやってみないか・・と。
私・・・「やります、やらせてください。」
本当に相手の迷惑も顧みず、自分勝手な私である。
ちょっとは遠慮をしろ・・・と言われかねないお婆である。

勇んで挑戦したはいいが、は・は・は・・・・
余りの不器用さに苦笑いの職人さん・・・
星の○印を合わせるのに時間がかかり、糊が乾いて行く・・・

私たちの挑戦した糊置きはこんな感じ・・・


とっても楽しゅうございました。
中々書物だけでは分からないこと満載だが、こうして直接見せていただくと物凄くよくわかる。
私は書物で読んでいる「糊置き」と「しごき」の工程が今一、よく理解できなかったのだが、それがとっても一目瞭然。
それに色々あるヘラや刷毛の種類など、今回は勉強になりました。とくにヘラに使う方の名前が書いてあるのが印象的でした。職人さんに寄って手の大きさ、使い勝手、動かす早さと握りの大きさなど、こだわりながら調整されて行くんだなあ…と。

ただ廣瀬さんご一家、職人さんにはお忙しい時に手をとめて頂き、一家で私たちにお相手してくださり感謝申し上げています。
半日近く仕事が滞ったわけで本当に申し訳なく、何もわからない素人の申し出を快く引き受けてくださったことに心より感謝いたします。

              本当にありがとうございました。(深謝)