和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

ちよさんとのこと・・・・♪〜♪♪

今までの私の人生で敬愛する人が何人かいる。
その中の1人「Cさん」について今日は書こうと思う。
「Cさん」を仮に「ちよさん」と言うことにしよう。
人の名前をアルファベットで呼んでも何だか実感がわかぬので。

いつもながら何の構想も下書きもない、思い出しながらとつとつと書くので脈略もないまずい話運びになるやもしれぬ、ご容赦を〜。又ダラダラ長い文になるやもしれぬ。平に平にご容赦を。急ぐ方、どうかスルーしていってくだされ。

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その方との出会いは、今から二十年位前の話。
初めてその方に会ったのは救急病院の脳外科病棟のICU(集中治療室)
私は家族の介護者として入室を許可してもらっていた。
ちよさんは脳腫瘍の摘出を受けられた後だった。
「看護婦さん、私の手にガムテープでスプーン巻いて。自分で食べる。それもリハビリやから。」
朦朧とする意識の中で介護者がいないちよさんは健気にも自分で頑張ろうとしていた、まさに衝撃の出会いだった。

そこは救急指定の病院で少しでも良くなると、また逆に症状の改善が全く見られないと直ぐに別な病院に変わらねばならなかった。良くなっていく人はリハビリの専門病院へと、改善されない方は若い方と年配者とは若干違い、ちよさんの年齢では老人病院のような所へと。そう、ちよさんは今の私くらいの年齢だった。
期せずして前回の法事の時の私の横顔は自分でも驚くくらいにちよさんと似ている。

そんな中でちよさんはその病院の主のような存在だった。態度がではない、看護婦さんや病院の先生のちよさんに対する対応がである。お医者さんも看護婦さんもそれは丁寧で優しかった。言葉の端端にちよさんに対する敬意があるのだ。
じきにそれがどうしてかがわかった。

ものすごい若い時から子供を二人産んだ後、癌を患い何十年もその病院を出たり入ったりしていたのである。
胃、十二指腸、小腸、大腸、肺、肋骨、脚の骨、そしてその時は頭の中・・というように。患った順番は間違っているやもしれぬ。たび重なる手術の回数もさることながら難しい手術に本人は泣き事一つ言わない。家は遥か遠く家族が直ぐに会いに来られるようなところでもない。だから他の患者に比べ何から何まで病人である彼女が全て賄っていた。若い時からなので入院費用は膨れ上がり仕事の暇な時にはご主人は出稼ぎに京都や新潟まで行っていた。しかし最先端の医学の治療を受けようとすればその病院でないといけなかった。最先端を望まなくてもその病院しか選択の余地はなかったともいえる。

以前にちらっと書いたが脳外科病棟は病院の中でも他の病棟と全く雰囲気が違う。全快して退院できる方はほとんどまれである。良くて半身不随。体だけでなく言葉が不自由の時もあれば方向が不自由な時もある。病室の前がトイレであっても帰ってこられない。常に誰かの補助がないと人とかかわるのは病院の中でも難しい。しかも退院しても幻覚幻聴の後遺症と闘わないといけない。何年に一度頭の中に入れた小さなポンプを新しく手術で変えないと行けない方も多い。頭にたまる水をお復に戻すためのものである。家族の結束が増す他の病棟や他の病気とは明らかに違う。むしろ家族が音を立てて壊れて行くのである。それだけ闘病生活も長くなるし、人の一生懸命さや一途さは何年も続かないのである。病人自身の性格や気質も違ってくるし、ものの考え方や生き方に諦めや自暴自棄がひたひたと入り込んでくるので配偶者は案外離れて行くのだ。中でも変わらないのは親の子に対する愛かもしれぬ。特に母親。それでも何年も何十年も続くと言葉でいうほど簡単なものではない。そんな重い空気に包まれている病棟の中でちよさんの存在はすこぶる明るかった。

無駄なことはいわない、余計な詮索はしない、無意味な気休めは決して言わない、どこまでも寡黙であった。そのくせ見舞客で無神経で人ごとであるような呑気な物言いをする癇に障る人にはピシャリと手厳しかった。けっして聞き逃さない毅然とした断固とした力強さがあった。実に胸がすいた。
明日と言う日が失意と絶望しかない若者で、病室で看護婦さんや家族に暴れたり暴言を吐いたり投げやりになったりしている人もいた。でもちよさんの前ではものすごく静かで大人しかった。素直で従順だった。
人がおよそ耐えられないような不運と不幸と絶望の日々の中でちよさんは絶対に弱音を吐かなかったからだろう。自分の人生を気負いなく受け入れる度量の広さとともに、どうにもならぬ長年の諦めもあったのかもしれない。それは無理して大きな岩によじ登ろうとしている姿ではなく、何処までも自然体でおおらかさがあった。そのくせここ一番では負けん気と健気さとしたたかな粘り強さを発揮した。

特に病棟の中で仲が良かったのはちよさんと私ともう一人Aさんだった。
Aさんは奥様が交通事故で脳を1/3以上摘出された方で私たちは三人何カ月も・・どころか何年もずっと続く闘病生活の中でまるで会うべくして巡り合った運命の三人となった。Aさんに関しては又いつか…機会があれば・・ないならないで・・それもしかたがないのだが。

ちよさんは痛み止めを常時呑んではいたが一日の量はピークに達しあとは我慢するしかない極限にまで達していた。今では神経ブロックの手術も有るだろうが当時は一般的ではなかった。目と目の間には我慢しているときの力で横しわが何本も深くはいり痛みの度合いが半端でないことが見ているだけで伝わってきた。
中でも骨の癌はちよさんの股関節から膝の骨をむしばみ摘出したあと、そこには40センチ位の金属の棒が挿入されていた。その金属の棒が常時病みちよさんの悩みの種だった。特に北陸の冬は冷える。夜は八時や九時に暖房は止められ一晩中寒さと痛みとに耐えねばならぬ。梅雨時の湿度の高さも良くなかった。

でもそんな状態でもちよさんはできるだけ車いすを使わず杖で歩いていた。筋力が落ちるので・・・と。動かなくなったら本当に動けなくなるからと。看護婦さんの手を借りず出来る事はほとんど自分でしていた。自分ですることがリハビリなのだと。そして痛みに埋没する毎日の中でなんとか気を紛らわせながら生きていくために杖で病院の廊下を歩いていた。杖を片手に悠然と歩く姿には退院間近なご婦人と見られたに違いない。

その日は寒くて病院中が凍りそうな日だった。
朝からちよさんは調子が悪く薬の後遺症に苦しみおう吐を繰り返していた。
六人部屋で皆家族が持ってきた毛布の間に身体を滑り込ませそれでも震えていた。ちよさんは病院支給の毛布一枚の中で過ごしていた。ご主人は杜氏で新潟か何処かの酒ぐらに出稼ぎでしばらくは来られない。ご主人が毛布を持ってくるまで私の家の毛布を使って・・というが頑として否という。人に迷惑をかけるのをよしとしない昔気質。時と場合でしようと思うが「いらぬ」という。こっちもしまいには「勝手にしろ」と思う。病院の看護婦さんが「もう一枚毛布を持ってきましょうか」といっても私が二枚使うと病院中の人が二枚欲しいという時あなたは皆対処できるのか・・と逆に問い詰められていた。寒さの度合いは皆違うのだ。年寄りや子供さんに譲るといって決して本来の支給の一枚しか使わなかった。私は大丈夫・・と。
そうやって人の好意に頼らずに生きてきたに違いない。いや、だからこそ生きてこれたに違いない。甘えたことを言っていたらそれこそ悲しみに埋没しないといけなくなるので。

しかしその夜の冷え込みは半端やなかった。余りの冷え込みに寝られぬ。
夜中一時すぎ、起きてトイレに行くが室内の水道管が凍り始めているのが流れる水音で分かる。
この寒さにちよさんはどうしているか・・・居てもたってもいられぬ。
ええい・・ままよ・と毛布二枚を抱えて病院に走る。(勿論走ったのは車だが・・・)
道路はピカピカに凍りツルツル状態。ゆっくりと静かに車を走らせはするがブレーキが全く効かないので信号のところでは最初から止まれるようにアクセルは一切踏まぬ。どうかどんな車も来ませんように。

両の手に毛布を抱え病棟へ。
夜勤の看護婦さんに挨拶しちよさんの病室へ。
「余りに寒くて毛布いるかと思って・・」と。
返事がない。でも起きていることは分かる。この寒さに寝られるわけがない。返事があるまで帰らぬぞ・・と思う。しばらくして・・・
「外は凍っていたやろう?」と。
「うん、運転下手くそな私には恐ろしい道路やったわ」と。
「折角やから一枚だけ貸してもらおうか」とちよさん。
「なんでやねん、二枚持ってきたのに。又一枚持って帰れってか?」と。
「新しいもんやない・・一杯あるんやから使うてや。うちではもう使わんから返してもらわんでええ〜。」となんとか使ってもらうにはどうすればいいか思案しながら話す。

「もらってもなんも返せえへん。何も返すことできんのよ、私。」と。
「なんも返してもらおうなんて思てへん。」と私。かなり私も腹を立て始めていた。毛布の一枚二枚で倒産するうちやないで。
「何枚あってもいるもんなんに、悪いねえ」と。

その時思わず言ってしまった。
「心配せんかてええ、うちは毛布屋や!!!それこそ家には腐るほどあるんやで!!!」

その瞬間病室内、大爆笑。
「それを言うなら布団屋じゃがね!!」と。
「ちょっと間違えただけじゃ!!」と私。焦った。嘘やともうばれたかあ〜。
あんたらみんな起きていたんかあ?黙って人のやり取り聞いて人が悪すぎやで。

一枚をちよさんの金属の入った脚に巻きつけて、もう一枚を上から下半身にこっぽり包みこんで・・・二枚の毛布置いてきました。
これで安心して私が寝れるがな。

寒さも収まり後日その毛布を返す、返えさんでいいと再びもめる。
で中をとって一枚返してもらう、そして一枚ちよさんに使かってもらうということで決着。
脳腫瘍の手術の後、頸椎にがんが見つかりまたもや手術。

      切り刻む場所は体に残りしか 静かに笑まひて八度目のメス

ちよさんが力なくそれでも気丈に笑いながら手術室に消えた日に作った歌。
「切り刻む」はちよさんの言葉そのまま。頭と言わず、内臓と言わず、骨と言わず、筋肉といわず・・・何度も何度もそして何十年も病院の入退院を繰り返し薬と後遺症と副作用に苦しんできた。それでも泣き事は聞いたことがなかった。
一度病室の皆で話していてこんな話になった。
「夢みたいな話だけどね・・・もし・・・もし・・・一つ望みがかなうとしたら何を願う?」と。
辛い話だ。半身不随の人、家族に見捨てられた人、離婚された人、介護していた伴侶が先に逝った人、家にはすでに居場所がない人・・・・・
皆「し・・・ん」となる。

「私は、何も要らない、杖でもいい、自分の足で歩きたい。」
「私は、家に帰りたい。このまま寝たっきりでもいいので。」
「私は、死ぬ時だけでも緑の風景みたい。天井見て死ぬのはいややなあ。」
「私は、倒れる前に種をまいた自分の大根たべたい。」
「私は、真っ白い炊き立てご飯に梅干し乗せて食べたい。」
段々辛くなっていく・・・
「もし・・」なんて言わなくても誰でも毎日何の苦もなくやっていることだから・・
「一日でも早く死んだご主人のそばに・・」と言う人までいた。

その時ちよさんがいった。
「わたしはね・・・夢だけど・・・許されるなら・・・・」と。今までそういう会話に絶対入ることがなかったのでしんとなる。
「私は『怖いよ〜』と大声で叫びたい。」と。
「もしできるなら一度でいい、『怖いよ、死にたくないよ』と大声で叫んで病院中を走り回りたい」と。

自分の入院費用をねん出するために働きずめの御主人の為にも弱音は吐けなかった。
「怖い」とか「辛い」とか「悲しい」とかの自然な気持ちすら押し殺し生きてきたちよさんの歳月を思うとみんな布団をかぶって泣いた。自分で布団をかぶることもできぬ人もいる。動く方の手で自分で涙を拭ける人はまだいい。

その手術のあと何カ月かしてちよさんはとうとうなくなってしまいました。
人生の大半どころか人生のほとんどを癌と戦い生きた彼女だった。
ちよさんがしんみり話したことがある。
「こんな化け物みたいな身体でも私は生きて行かないといけない。それはね・・・産むだけでなにも母親らしいことができなかった私やけど、
一生懸命生きる事だけが子供たちに見せてあげられる母の姿だから」と。

私は家族の介護で葬儀に参列できなかったのだが、弔電だけは打ちたかった。
脳外科病棟という陰鬱な中で、明るく希望を失わないちよさんを皆がどれほど癒され慕い助けられたか・・・それだけは伝えたかったので。せめて棺にそっと入れてもらえるだけでよかった。

葬儀の後、ちよさんの弟さんご夫婦が私の家に来てくださった。
ご主人は議員さんなどからくる弔電は一枚も読まなかったと。そして私からの弔電だけ一枚ご披露してくださった由。棺の中には私の持っていった毛布がいれられ最後までちよさんが大事にしていてくれたと聞くと思わず胸が詰まる。
長い闘病生活の後なのでお骨は姿、形がなく灰になって出てきたが、脚に入れられていた金属がドンと残っていて皆でそれをどかそうにも重くて動かなんだと。こんな重いものをちよさんが毎日脚に入れてそれでも歩いていたかと思うとその場に居合わせた人たちが思わず涙ぐまずに居られなかったと。

ちよさんの葬儀も寒い寒い日だった。
生きて行くというのはなんと辛いことか・・・
でも人と人が知り合えてほんの少し心が通じて・・
それが救いとなってささやかながらも生きて行く力になって行く。
人ってすごい・・と思わずにはいられない。

一昨日九州から時間をやり繰りしてはるばる金沢に来てくださったまりんかさん・・
一緒に食事するご縁のあったMIKUちゃん・・・
人と人のご縁の深さを感慨深く思った次第。
ちよさんとのご縁を思い出しながら書いてみたくなった。
今日は仕事が休みだったこともあったし。。。

長い長い文にお付き合いくださりありがとうございました。