和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

母の記憶喪失

田や畑の仕事の合間に

有るときは野菜を売り歩きながら、
又ある時は漁の手伝いをしながら、
又有るときは日銭稼ぎの日雇い仕事をしながら、
母は病人の世話と私たち子供四人を育ててくれた。
それは野菜売りのところで既に書いたことだ。

私が小学校三年か四年の時である・・
日雇いの人夫仕事に行った母が大怪我をした。

小柄で華奢な母はダンプの風圧に巻き込まれたか・・・どうかしたらしい。
積み上げられたブロックに身体を打ちつけその時に頭を打ったらしい。
私は学校から帰って知らされた。
一番幼い私には詳しい経緯は知らされず周りの様子から事態の深刻さがうかがえた。
この時は記憶では父の存在が全く欠落している。
母と一緒に働いていたのか・・はたまた怪我の具合が治らず床についていたのか・・全く記憶にない。
娘というのは父になんて無関心なんでしょう〜

何日もして病院から家に帰った母の様子は全く以前とは違っていた。
右半身全部どす黒く色が変わり、事故と怪我の大きさを物語っていた。
何よりも目がうつろであった。

母は床に就いた後も「今日は何日?」を繰り返すだけだった。
「記憶喪失」という言葉もその時に聞いた。
今では知らぬ人のいない言葉だが何せ五十年近く前の話。
東京オリンピックもまだその何年後かでないとなかった時である。
当然テレビも普及していないときである。

徐々に、もしくは突然に全てを思い出すかもしれないし、出さないかもしれない・・
寝たり起きたりの生活が続いた。
あまりうるさくしないでゆっくりと静かにさせてやりなさい・・・という医者の言葉でそうでなくても一番うるさくまとわりついていた私は更に更に遠くへ遠ざけられた。

話変わるが昔の田舎では座敷に皆で寝ると言うのは珍しくなかった。
一人一部屋など夢の時代である。
私は他の姉や爺ちゃんと座敷で寝ていた。

夜、のれんの向こうで母が居間を通って静かにトイレに行くのが感じられた。
しかしトイレの後中々帰ってこない。
そのまま外へ出た様子だ。
昔は玄関に鍵も掛けていなかった。

玄関の戸の開く音で私はあわてて起きて外へ出てみた。
母は外でじっと月を見ていた。
放っておいたら何処かへ行ってしまいそうで、そっと傍により母の寝巻の袂をつかんだ。
何処にも一人では行かせてはだめだ・・・と無意識だった。

「あんたは??」と母は聞く。
かあちゃんの娘!!」と答える。
「そう・・・」そして「私には何人子供がいるの?」と。
真剣な表情に
「四人」と答えた。
何だかその瞬間、涙があふれた。
・・・・かあちゃん、本当になんも覚えてないんや…と。

家の近くに川がありその辺までそろそろと母と共に付いて歩いた。
田んぼ一面が広がり田起こしした田や、既に水を張った田が広がっていた。
あちこちから蛙の鳴く声が聞こえてのどかであった。
「今何月?」
「なんかしないといかんことが一杯有る気がするのに…何も思い出せん。」と。


空の上には白い月がぽっかりでていて、水を張ったところの田にはあちこちにお月さまが写っていた。田んぽの水に映ったお月さまがゆらゆら動くのが風で水面が動くせいなのか、拭いても拭いても出てくる涙のせいなのか、私は寝巻の袖でゴシゴシ目を拭きながらひっぱるようにして母の寝巻の袂を引いて家に戻ろうと必死だったのを今でも覚えている。
多分田植え時のことに違いない。

母の記憶がいつ治ったのか全く記憶にない。
すぐだったのか、しばらくかかったのか・・・定かではないが
いつか気がついたら母は和裁の仕立てをしていた。
外には仕事に出られないので色々な人のつてであろう。
仕立てといっても母は尋常小学校で習った運針しかしたことがないのでまずは浴衣を縫うことから習ったようだ。
これなら家でできるし・・と。

呉服屋さんに習いながら注意を受けながら一枚一枚仕上げていった・・それが実に綺麗な出来であったらしい。
やがて母を指名して反物が運ばれるようになり何時しかその時に縫っているもの以外に傍に三反、四反、五反とたまっていく。
やがてウールを縫うようになり袷の着物を縫うまでになった。
羽織やコートは勿論帯も縫っていたのを記憶している。
母も仕立ての仕事なら家でできるし家事もしながらできる事もある。何枚か仕立て途中の袖の付いていない着物が竹の棒に通され表と裏の布の伸びの調整をするために家のそこここに掛けられていたりして、なんとなく家中明るくなった記憶がある。私は学校から帰ると母の縫物をする縁側に座り母の仕事を見る毎日・・・というより横でしゃべる毎日。それがまた楽しかった。今までは帰ってきてもほとんど母は家にいなかったので。
今日何があって、どうしたこうした・・・と。
そのうち・・・

「なんでその着物に裏がつくのん?」
「なんでその着物には紋がつくの?」
「なんで紋の数が違うの?」
「なんでその着物には柄がないの?」
いつしか仕事にならないくらいなんでもなんでも聞いてくる私に、
「あんた、どっか遊びに行っておいで!!仕事できんがね!!」と。

野菜売りの事や母の歌までだして書いてきたのは実は今日のここにたどり着きたかったためである。
母が和裁の仕立てをするようになった事が、着物の美しさに魅せられていった私の原点ではないかと。
多分、こう書くと皆さんはきらびやかで美しい色や柄を連想されるはず・・・残念ながら色や柄は私の場合あまり関心はなかった・・。
一枚の真っ直ぐな布から鋏を入れ、縫い、そして人の体に添うようになることが不思議でしかたなかったのだ。
しかも平面に畳めるのだ。太っていても、痩せていても、大きな人でも小柄でも、反物一反ですべて賄えるのだ。
しかもほどけば又一反の反物に戻るのだ。
若い柄を色をかける事で別の反物によみがえらせることもできるのだ。
手品を見ているような不思議な感覚にとらわれたものである。

母は鋏を入れる前に実に多くの時間を柄あわせに使っていた。
何度も考え一番いい柄の出方を考えている。
勿論お客さんの寸法を見ながら・・
「ああ、これでは顔の下にいい柄こないなあ・・」とか。
「膝の動くところにこの柄を出したいのに・・」とか。
何度も何度も・・・どうかすると一日そのまんまの時もある。

でもこれで・・・と決めたらあとは早かった。
鋏もジョキジョキと入れるのではない。
横段のあの細い糸と糸の間に鋏の重なりの刃を当て、「すーーーーっ」と布を手前に引くのである。
実に美しい作業だった。だから信じられないだろうが鋏を入れた後には一本の横糸もほつれないのだ。鋏が横段の糸を切っていないので。今でもあんな美しい鋏の入れ方を見たことがない。正に神業だと思ってみていた。又母が縫った糸の目はとても細かく、洗い張りするために着物の縫いをほどこうとしてもその目があまりにしっかりと丁寧に細かく縫ってあるのでほどけないほど・・・と評判になっていたらしい。
呉服屋さんがまるで自分の手柄でもあるように話していたのを覚えている。

私が成人するころには・・もっと前だったかもしれない・・・大昔の事なので。
母は和裁技能士の一級を取っていた。何より凄いのは本一冊で学んだ独学だと言うこと。当時は和裁学校を卒業して何年仕事をしていても一級技能士は非常に難しく、和裁学校の方が先生になってほしいと頼みにきたこともあった。母は断っていた。お客様が着やすくて手放せないそんな着物を縫うことが自分の喜びなのだと。
自分の縫う一枚一枚の着物をどんな人が着て、どういう風に大事にしてくれるか・・・それを考えて縫うのが無常の楽しみなのだと。

八十歳前位まで裁縫台の前に座り黙々と着物を仕立ててはいたが段々目も弱り、手も思うようにならず、「美しい仕立てはもうできん」と、和裁の仕立てをきっぱりやめてしまった母である。
一方私は子供たちが成長し、もう後の人生自分の好きなように楽しんで生きたいと決めた時、着物の仕事をしようと決めたのである。
あの横糸と横糸の間に鋏の刃をあて、すーーーーっと引いた母の美しい仕事を見ていたので、人生最後につく仕事は好きな仕事を美しくしよう・・・と決めたのである。あんな美しい仕事に行きつきたいと。



長く・・・ほんに長くお付き合いくださりありがと。

 
私の作った和装組曲は、本当に美しい仕事を一つ一つ丁寧にしていきたいと願って作った着付け教室です。
母から学んだことを今度は私が生かしていきたいと・・

ぽっかり空いた休みの日の時間のつれづれに書いていたら思うよりも長くなりました。

いつもの事です。すみません。
今度は母を食事に連れ出そうと思いながら書いていましたよ〜・・・

                        ・・・・おしまい・・・・♪〜♪・・・