和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

美徳

いつもいつも私事で申し訳ない。
尤も私のブログは今に始まったことではない・・・(笑)




「打てば響く」という言葉がある。
私は随分長い間、そういう方が非常に好きだった。
どうかすると打つ前から響くような方は、その響き方が自分の思いと多少違っていても好きだった。
打っても打っても何の反応もない方より数段好きであった。

もう一つ好き勝手に言わせてもらえば
全てにバランスの良い方も好きであった。
何故なら自分が物凄くバランスの悪い人間だからだ。
ブログを読んでいてお分かりのように、私は非常に偏っている。
一つの物を見ると周りが全く見えなくなる所がある。
しかも思い込みが激しいから中々周りの意見や批評を受け付けないのである。

しかし・・・最近これが少し変わってきた。



私に違うのではないかと、そう思わせる方と遭遇したから。
いや、遭遇という言葉は正しくはない。
以前から何となく知ってはいた人なのだが、ある瞬間閃いて自分はあの人を正しく見ていなかった、と悟ったのだ。

今日はそのことについて是非書いておきたい。


その方は見た目も雰囲気もとてもあか抜けているとは言えない。
あか抜けて・・というより、寧ろ野暮ったい雰囲気すらある。
自分を差し置いて実に失礼な私である。
しかし、しかし、カムフラージュした所で何の意味もないではないか。

話していても感の良さも反応も決して良いとは言えない。
寧ろ悪い方に属すると思ってさえいた。
こちらをイライラさせるくらいに返答が遅すぎることは一度や二度ではなかった。
ほとんど私の記憶には残らない位の存在でもあった。
ここは何処までも正直に書くことにした。
更に無礼千万な雲龍柳である事を平に謝っておこう。


関わりは物凄く薄いのだが、知り合ってもう長い。
印象としては兎に角すぐに謝る人であった。
「自分が本当に悪いと思う時ならいざ知らず、悪くない時までいつもいつも謝る必要はないのよ。」
と言ったことがあった。
自分の意見や感想をはっきりと誰の前でも言えることは必要だし、その場を収めるためとはいえ不要な謝意は真剣に取り組んでいる周りにとても失礼でもあると固く信じてもいた。
だからむやみに「すいません」とか「ごめんなさい」というその方にちょっとイライラもしていた。
今の時代を生きている人?
信じられない思いでもあった。
私よりも随分若い方である。
自分の意見や考えが決して間違っていないと信じてもいたし、違う考え方もあるかもしれないと露ほども考えぬ傲慢極致の私だった。
「相手に謝らせるのは後味が悪いから」
とおどおどしながらポツリと答えていたのが妙に印象に残った。



どうした訳か、ふっと夜思い出した。
で、知り合ってからの色々の会話や事柄を次から次へと思い出していた。
本当に不思議な事なのだが、その瞬間のことである。
「あの人が人の事をこれっぼっちも悪く言うのを聞いたことがない」と。
確かに人の事を悪く言わない人は少ないけどいるにはいる。
意図してそうあろうとしている方はイライラするほど沢山いる。
何か言い始めて途中で言葉を飲み込む、そして「なんでもないです。気にしないで」と。
だったら初めから言うな、と思う。
でもその方はちょっとの批判がましさすら匂わした事もないのである。
多分あの人はそういう事を考えることすらないのではないか。

私はあの人のどこを、何を、一体見ていたのだろうか、と。
仕事を優先し、仕事にかかわる一切の時間を優先し、人を判断していたのではなかろうか。
てきぱきと仕事を処理し、徹底的に無駄を排し、ここぞと人を批判し、不要だと思う人を容赦なく切り捨ててきた私ではないか。
仕事の効率や有能さという事がいつの間にか自分の中での人の大切な判断基準になっていたように思う。
私は多分に人の本質、素養という事に頗る鈍感になっていたに違いない。

あ・・ぁ・・私は本当に馬鹿だったなあ、と。


話は変わるが、亡くなった母がよく言っていた言葉にこういう言葉があった。
「自分を律するために周りの煙たい人達がいる」のだと。
煙たい人たちが居ないと駄目である、と。
舅、姑、小姑、親戚、ご近所さん・・そういう人たちの中で身動き取れず息切れしていた私に言った言葉である。
「舅、姑、小姑・・そういう人がいなくなると今度は夫や子供が自分の重石になっていく」とも。
夫や子供がいるから人は道を踏み外さない、とも。
お金のないのも、思う仕事に就けないのも、上手くいかぬ人間関係も、それはそれで自分を鍛える一つであると。
いわば自分自身が浮ついて人を人とも思わなくなっていくのを避ける為の「重石」なのだと。様々な角度から自分を熟考するための布石でもあるのだと。
誰に気を遣う相手もいなくて、気兼ねすることもなく、お金にも余り不自由しなくなったり、社会的な地位なども少し手に入れた時は人は傲慢になる、と。
バランスの良いと思っていた方がその環境が変わっていったために物凄くバランスの悪い偏った考え方に向かうなど、世間によくある話である。
お金や社会的な地位や名誉を手にした瞬間から人は変わっていくのだ。今まで山ほどそういう方々を見て来たではないか。

でも・・・・・でも・・である。
「私には重石が多すぎ〜!!! このままだと私はタクアンになる。」と母に訴えた。
「この世は浮き世、あなたのような人は重石も沢山ないと浮いて何処までも流れて行くのよ。神様は良く分かっていらっしゃる。」と。
いつの間にか仕事をするようになってから、仕事ばかりを優先して、人の表に出ているインパクトに目が眩み、私は人の本質を見誤るような人間になっていったようである。



その夜以来、彼女は本当に美しい徳を備えた方である・・・そういう認識を持つようになった。

外に強烈にアピールできるものがなくても、ひっそりと自分の思いを抱えて実に静かに生きている方、人に自分を認めてもらう為に腐心するのではなく、何時でも躊躇いもなく周りのために自分を捨て石の一つにすらできる・・・これを美しいと言わずして何という?
本当に美しいものは人の目にそう簡単には「美しい」と見えないに違いない。
砂浜の数多ある砂の中で、気付かないような静かにひっそり鈍く光る石、でも手に取れば柔らかで暖かな石を見分けられる自分になりたい。
遠くからでもキラリと美しく光るガラスは触るたびに自分が傷付くだけなのも知ってしまった自分でもある。

そして人の美徳を分かる自分にならねば…と修業の足りぬ自分を省みた夜であった。
年だけは人並み以上に取っていても、私の目はずっと節穴だった。
キリキリと自分の体を縛っていた傲慢さがふっと緩んで、あるべき道に少し修正してくれたようなそんなちょっと静かな秋の夜だった。



   青虫が葉を喰らふ音さくさくと
            聞こゆるごとし秋の夜の闇



   何処より入り来たりしやコオロギの
            観葉の鉢の陰に果てゐる 





明日は早朝から群馬。
帰ってきたら京都。
時間を見つけて「能面展」の協賛企業七社にお礼行脚。
かなり疲れてはいるのだが…何とか体力持ってくれ〜と祈る。