和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

体育祭 〜リベンジ編〜


前回体育祭のふがいない私の事を書いた。
あのまま終わっては余りに自分が不憫なので忘れないうちにリベンジ編を書くことにする。


     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・♪♪・・・・・     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


29歳の時の話・・・・・私にもあった、こんな若い時が。
皆さんも信じられないだろうが、自分が一番信じられない。
人生は一瞬の夢〜幻〜。

子供が2人いた。
2人の子供を寝かしつける時によく絵本を読んだり、色んな話をして寝るまでの一時を私は楽しんでいた。一日のうちで一番好きな時間だった。
その日も3人でお布団の中にいる時だった。子供たちは既に寝息をたて静かな眠りに入っていたし、寝かしつけるはずの私もトロトロした眠気の中にまどろんでいた。
階下で誰か来客か。言い争うような声にも聞こえる。
眠さがまさり、寝返りをうったその時に義母が階段を上がってくるギシギシという音がする。
古い家だったなあ〜。
「起きてる?」
気兼ねそうに尋ねてくる。
「うん、何?」
と私。
「あのね、ちょっと玄関まで来て。お客さん〜」と義母。

カーディガンを羽織り、玄関に行く。
当時体育委員をしていた町会の女性がいた。
何となく険悪な表情だった。
母は後は任せた・・と言う風に居間にサッと行ってしまう。

私が話す前にまくしたてられてしまった。
「今度の体育大会、あなたの出るのはマラソンに決まったので」と。
「はぁ〜?!」
間抜けな返事をする私。
間髪入れずその人は
「あんたね、いつもいつも体育祭の度に逃げて今まで一度も出てないやろ?
今回どうしても人が足りないのでああもこうもないの、マラソンに出てもらう。びりでもいいから。」とのこと。
他の方々にも言われてきたに違いない。あそこの家のねえさんは絶対出んよ・・こうなったら絶対今年は出てもらうようにせんといかん、と。まさに決死の覚悟で我が家に来たに違いない。その方の形相を見れば手に取るように分かる。

校下でも多くの町会があった。若い方が多い団地や体育祭が命のように頑張る町会、お祭りやみこしに心血注ぐ町会、囲碁や将棋に頑張る町会・・・どんなに人数が少なくても何とかやりくりして各町会から1人とか、2人とか・・・色んな競技に出ないといけない。そして町会同士が点数を競うのだ。
障害物はもとより、100メートル走、200メートル走、大玉ころがし、借り物競争、2人3脚、親子競争、などなど色々工夫された他のプログラムは何とかなった。
しかし、マラソンのしかも20代の女性出場者がいないとのこと。10代からはじまり、20代、30代、・・・・50代まであるそうな。男性陣は決まったそうだ。
「私は駄目。何とか他の方に。」
といつもなら間髪入れずに断固言う。
でももはや事態はそういうレベルを超えているところまで逼迫しているようだ。
体育委員の方の顔の表情は固まり、絶対譲歩しない風が見て取れた。目が座っていた。頭から湯気が出る勢いだ。

何とかならぬかと善後策を考える私にその方は畳みかけるように言う。
「どうしても嫌なら、誰か代わりの人を自分で探して!!代役の人の名前を実行委員長の所に自分で言いに行って。期限は1週間。印刷に入るから。」と。
実際20代の学生さんなら苦も無く出てくれるはず。しかし、その時にいた20代の何人かは、部活や合宿や、怪我や、旅行で誰も変われなかった。
20代の所に29歳の私かい? 酷くない? しかもその体育祭のすぐ後に30歳になるというのに。
「なんの、出るつもりでも当日病気になるということもある・・人間だから」
と含みを持たせた物言いの後、直ぐ帰られた。

人に言えないような卑怯臭い手は私の選択肢にはない。
何を言っても代わりを見つけるしか方法がない。
次の日から片っ端から聞いて歩く。
「ごめん、その日仕事なんよ」
「駄目駄目、マラソン何て絶対無理」
「子供のスイミングで県外まで送らんといかん」
「妊娠してるの」

挙句の果てには
「腰が悪い」
「心臓が悪い」
「膝が悪い」
まあまあ、ここまで言う? 皆本当? 20代でしょ?
体が悪いと言うとそれ以上は言えない。
だって走って悪化してもどうしてあげることもできんのだから。


ところが最後のおうちで
「いいよ〜、私で良ければ〜♪」
という軽快な返事。
「走るの好きだから」
とも。
何ていい人、何て素晴らしい。私の目までキラリーン〜☆
神様に見えたよ、その人が。
「で?・・・・ん?・・・・20代のところ?無理無理、私30歳過ぎてるよ。」

がびょ〜・・〜・・・・・(町内一周)・・・・・・・〜・・ん。

万策尽きドヨーンとなる。
あの高校生の時の悪夢がよみがえる。
最後に無様にゴールする私に哀れみの拍手の嵐。
無理・・・無理…・・・又あんなことがあったら私二度と立ち上がれない。


一週間物凄く静かな私であった。
何か方法があるだろう…何かいい知恵があるだろう・・・何か思いつくはず・・・考えないと。

夜子供たちの寝顔を見ていると、事態の深刻さがなんともやるせなく胸に迫る。
高校生の時の一人の恥ではすまない。
この子たちの母親は・・とこの子たちまでずっと笑いものになってしまう。
今の世ならそんなことはあまりない。
親のことで子供まで何時までもとやかくは言われない。
しかし何といっても35年も昔の話。
「出る人がいない体育祭なら止めたらいいのに」
今なら平気で言えるのだが、当時は口が裂けても言えなかった。
何とかよい方法はないか・・
何か・・・何か・・・何か・・・・いい案がきっとあるはず・・・


なんもない物なのよね。
とてつもなく走るのが好きな人が突然同じ町会に引っ越して私は旗を振って狂気乱舞する・・・・夢まで見たというのに。
結局一週間はあっという間に過ぎる。

腹をくくるしかない。
兎に角できるだけのことをするしかない。
気合いで熱を出して休む・・などという選択肢は私にはない。

大きなカレンダーを破る。
白い裏に細かく表を書く。
体育祭まで二か月ちょい。
横に60日分の日にちを入れ、縦にこなさないといけない事を書き入れる。

  柔軟、腹筋、背筋、脚力、スクワット・・・これは朝
  走行距離、所要時間、・・・これは夜

などをいれクリアできた段階によって×、△、○、◎を。
ラソンの距離は3キロだったか、5キロだったか、鮮明ではない。
男性はもっと長かった気がする。
年配者は勿論少ない距離だったと思う。

出ると決まったからには3キロだろうが10キロだろうが走るしかない。
まずは1キロからタイムを計る。次の日はそのタイムを縮める。
1キロから始め2キロ、3キロと進み、最後の方には10キロか15キロくらいまで走った。
2週間もしないうちに腱鞘炎となり痛み止めの注射してもらいながらの練習となる。
「底の厚いシューズにしなさい」
と医者に注意されはしたのだが、もう二度と走ることはないだろうから無駄な事にお金は使いたくなかった。
踵を地面付けないで足先だけでひょこひょこ走り続けた。
踵に負担がない分、腱鞘炎の注射は2〜3日おきだったのが1週間に1度に減った。
「膝や腰に負担がかかる前にやめなさい。」
見透かされて言われた。
「大丈夫、物凄く短期決戦だから」



2か月しないうちに何とか肩で息をしなくていい位までにはなった。
しかし、他の方のレベルが分からない。もっと速度をあげよう。もっと距離を伸ばそう。
もっと持久力と脚力を付けなければ・・と。バランスよく走るために腕の力もいる。腕立てを組み込もう。筋肉を作るためにタンパク質も多く摂ろう。
雨の日も台風の日も炎天下でも走り続けた。勿論子供がいるので走るのは子供が寝てからの話。
夜なので必ず途中通過として入れた場所

   交番の前、消防署の前、病院の前、柔道場、遅くまで仕事している大きなビルの前

なるべく車の多い大通りを走り、夜間灯の煌々と照らす道を選ぶ。
脚力を付けるため歩道橋があればできるだけ往復で入れた。
遅い時間でも明かりの長くついている場所などできるだけ入れた。
今のように市民マラソンが盛んであったわけでもない。
誰もいない夜、静かに黙々と一人走り続けた。
時間にして2時間は走り続けた。体調によっては途中歩く日も当然あった。
頭を真っ白にしてただ黙々とひたすらに。
それは「行」に近かった。



雷が鳴り雨がバケツをひっくり返したように降る日、いつものように走りに行こうと玄関に行くと、
「一日休んだからと言って変わるもんでなかろう〜」
と義父がやんわり止めた。
「こんな日に走るなんて無茶苦茶や」
と義母も必死に止めた。

「今の私には休む余裕なんてない」
「走る分には天気は関係ない」
と私は外に出る。決めたら人の言う事など耳を貸さぬ。
ヤッケを着て帽子を被る。
「一概」と「きちがい」は一字違いやとその時に義母にいわれた言葉。
言い得てて妙〜(笑)
その言葉を背で受けて玄関の戸を閉め、土砂降りの雨の夜に走り出す。

もはや気のふれた女だった。
子供たちにまで迷惑はかけられん。
せめてとてつもなく遅れてゴールする無様さは避けなければ。
その一念しかなかった。



     かくて体育祭の日・・・・
         またもや運命の日・・・・私には運命の日が本当に多い。


ラソンは最後のプログラム。
何処を走るかは当日まで分からない。
グラウンドから出て街頭、そしてグラウンドに戻る、という。
曲がり角には係の人が立っていて年代別の旗を振り行く方向を示してくれる。
ああ・・どうか行く道を私は間違えませんように。どうかとんでもない方向に行きませんように。実はそれが私には一番の心配事でもあった。

10代の男性、女性
20代の男性、女性

と言う風にスタートを切ったように思う。
老いも若きも、男も女も入り乱れてのマラソンだったように思う。
スタート地点で子供たちが「ママ頑張って」と言う。
義母は、この子たちは任せて、ちゃんと見ているからと真剣な表情でいう。
頼んだよ…本当に。


各町会だけで20は優にあったのではないかと思う。
なので知らない人がほとんどで私の前にいる人が10代なのか20代なのかもわからない。
中年の方は走る距離が少ないので途中から合流するような順路だった。

最初から行ける所まで行け・・・とかっとばす。
最初から全く力をセーブしないと決めていたから。
走れるだけ走る、それしか思っていなかった。
基本、どんなことも駆け引きなどできる私でもない。
心臓が破れるなら破れろ・・とばかりかっ飛ばす。

走っている最中に男性で「心臓が・・」と歩き始めた方もいた。
「足がつった」と腰を下ろしている女性もいた。
もはや距離の長さに諦めて「出るのではなかった」と歩いている女性もいた。
その時の私はといえば、心臓が止まっても構わない、最後になるくらいなら、命も尽きよと自分に言い聞かせていた。

もう順位もどうでもよい。この酷さから抜け出たい…歩きたい・・・時々そんな心の声がする。
そんな誘惑にかられた時、自分を叱咤した。
「何という情けない奴だ、お前は。今までの努力を無駄にするのか」と自問する。
「無駄にしてもいい。疲れた、ひどい、歩きたい。」と言うもう一人の自分。
「けっ!!!あの高校の時の障害物の時の無様さをもう一度味わうがいい!!!」
「トイレでめそめそ泣いたのは誰だ!!!」
「今度は子供たちにもそんな思いをさせるのか」
自分で自分を叱咤する。高校の時のあの惨めな次の日が胸に迫る。本当に辛かった。
ここで死ぬくらいならゴールしてから死ね・・・・・極悪非道の私がいた。
行け・・このまま・・・行け・・・あの子たちに会わせる顔がないだろう〜
子供の事を出されたら頑張るしかない。
たったそれだけを支えに生きていた女だから。


グランドに戻ってきた。ほとんど前には誰もいない。
「えっ?まさか最後?」
いや、違う。誰もまだのようだ・・すぐ後ろに何人かいる。
綱の張った向こうに子供たちが見える。
義母のびっくり驚いている顔も見える。
「ママ!!」といいながら飛び跳ねる子供の声。
4歳のその子が喜び勇んで綱を乗り越えてコースに出て来た。
義母が止めようとしてつんのめる。
下のまだろくに歩けない子がよろよろと綱を潜り抜けてコースに来る。
おぼつかない足で私の脚にしがみつく。
危ない…後続のランナーたちがドンドングラウンドに入ってくる。
町会の人たちの「早く行け!!後ろに来てるぞ!!!」の声が飛び交う。

私はちょっとためらいはしたが、引き離されまいと必死にしがみつく下の子供を左手に抱え、
4歳のその子に聞く。
「ママと一緒にゴールしよっか?」
「うん!する!!」
右手に上の子の手を引き3人でゴールした。

そのほんのしばらく後で2位の人がゴールしたようだ。

その2位の人の町会の人からクレームがつく。
子供を連れて、ゴールしたのはあれは違反ではないか…と。
あんな順位は認められないだろうと。
あんなマラソン見たことないぞ、と。

委員長を囲んで体育委員が1位として認めるか、失格かで協議が難航しているようでもあった。
知ったことか・・・・私はどうでもよかった。
私は1位でなくてもいいのだ。私は無様な最後だけは避けたかっただけ。
3人でゴールのテープを切れて物凄く満ち足りていた。
失格でも少しも構わなかった。

委員長がマイクを持ち、物言いのついた理由とどういう決着になったかを会場に向けてアナウンスした。
「子供を抱えて、手を引いてゴールしたことは1位になることの障害になっても、あの状況ではなんらとがめられるものではないと判断した」と。
「お〜・・・・!!!」
わが町会からは盛大などよめきと拍手。


大きな景品を頂いて3人席に戻る。
抱えた下の子の胸には一位を示す赤いリボン、
上の子は景品の大きな包みをガラガラと引きづりながら歩いて。
町会の方々から拍手で3人迎えられる。子供2人は何となく照れている。
景品は当時としては珍しい木の蓋付きの大きな四角いおでん鍋であった。
4つ仕切りの有るホーロー鍋で美しい花の模様も付いていた。
ホーロー鍋は当時としては物凄く貴重でしかも高かった。
30年位我が家で重宝して使っていた。

翌日からは会う人会う人ごとに、違う町会の人からも、
「あなたは走る才能をなぜ今まで隠していたのか」と言われた。
「絶対走れない人だと、皆で言っていたのよ」と。
あの強引に私に押し付けていった体育委員の人ですら
「ダントツで見ていてとても気持ちよかったわ〜あなたあんなに早く走れるのね。」と。
走れるのにそれをじっと隠し辞退する、私はいつの間にかとても謙虚な人になっていたようだ。
あり得ない。この私が謙虚? はあ〜? 見る目がなさ過ぎ〜。
謙虚から一番遠い所にいるというのに。(笑)

あの無様なラストから14年後のこと。
高校生の時のトラウマがやっと私の中でほんのすこーし消えた日でもあった。
失敗があるから成功がある。
人生で取り返せない失敗などそうそうないのだと体が教えてくれた日・・・・



リベンジ編・・・・お・し・ま・い〜♪



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                       【参考までに】

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        ※ 稲刈りの思い出
           http://d.hatena.ne.jp/umryuyanagi104/20131014/1381704464

        ※ 稲刈りの思い出〜リベンジ編〜
           http://d.hatena.ne.jp/umryuyanagi104/20150815/1439624962

このリベンジ編の時にブログ友の「瑞閏さん」が「ランナーズハイならぬファマーズハイ」という言葉をコメント欄に書いてくださった。その時にいつか暇な時に無様な高校の時の体育祭の事を書こうと決めていた。決めてはいたのだが、何と二年もかかってしまった。