和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

最近の感動〜♪

「博覧強記」・・・この方のためにこそある言葉〜・・

そんな人、安田登氏。


あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)

あわいの力 「心の時代」の次を生きる (シリーズ 22世紀を生きる)



日本人の身体 (ちくま新書)

日本人の身体 (ちくま新書)




実は体の調子を悪くする前に何冊か読みたい本を積んでいた。
しかし、調子の悪い時に我がブログにわざわざコメントをくださったこみっちゃん (id:tadahitori315 )のコメントの中にお勧め五冊名前が挙がった。
そのうちの二冊。
体調が戻った時に読んでみたいと注文だけはしておいた。
まだこれ以外に別の著者の二冊は今読んでいるのだが、多分この二冊の方が面白い。


中身も中々変化に富んでとてもユニークで面白い。私は自分の琵琶の時の何かの参考にならないか、それだけを考えていたのだが、この方の生きざまがなんといってもユニーク。しかも楽しい。
人生を謳歌されているのだが、どこまでも真摯でまじめにしかも徹底的に取り組まれているのも読んでいて嬉しい。



本の紹介もさることながら、この方の生き方をちょっとだけ書き出す。

今は六十代ではないか・・この本を書かれた時は五十代後半あたりのはず。
高校生の時は麻雀とポーカーに夢中になり、そこから甲骨文字や楔形文字にはまっていく。
大学では中国古代哲学。一方学費を稼ぐために夜の店でピアノ弾き。
どっぷりと夜の世界に浸かるかと思いきや仕事に就く。これが高校教師。
二十代前半で漢字の辞典の編纂に携わったりもしていらっしゃる。
そんな訳で書物の中でどこからでも甲骨文字に入っていかれる。
後にひょんなことから見た能に夢中になり能楽師となる。
一方、ヘブライ語、シュメール語、アッカド語にはじまり、古代ギリシャ語など次々勉強されて実に縦横無尽に書に登場する。釈迦や孔子やイエスなどの書物を原語で読まれているのだろう、随所に原語で登場。甲骨文字の読み解きまで登場。かと思いきや、和音のコードに始まる洋楽の音の感覚と和楽の違いなど、オーケストラから謡曲の話にもなる。

ある時、ご自身の体に起こった変化から(半身まひ・・頸椎の神経が骨に擦れて起こったらしい。)いろんな病院でも手術しかないといわれ、その手術も成功の確率は少ない・・そのことからなられたロルフィングの専門家としての顔。これは今は施術をされていないようであるが・・。

又日本各地で論語謡曲を中心とした寺小屋のような活動、ニートや引きこもりの方々の意識改革(ひょっとしたらこの言葉は語弊があるかも・・)などにも取り組まれている。経歴も面白いのだが中心はあくまで能楽師




中でも能の話がすこぶる面白い。
特に体の使い方に関するところは私は赤線を何本も引きながらチェック。

ちょっと本から幾つか面白いところを引用すると
「能は異界とこちらの世界をつなぐもの」
 能で能面を付けているのは異界の人。霊力を持った翁であったり、鬼であったり、天女だったりするのだが、それを分かってくれるような人の前に登場する。その人はどこかに欠落を持った漂泊の放浪者、僧侶であったり、武士であったりするのだ。その面を付けている方がシテ(主人公)でその放浪者が面を一切つけないワキ(脇役)となる。観客は現在の人たちだがワキがそのあちらの世界とこちらの世界をつなぐことになる、と。今を一挙に昔にしてしまうための道具が囃子となる。大事なのは観客の思い・・・それがうまくいかないと観客は眠ってしまう(笑)←それもそれでいいのだそう・・
そして「心」と「思い」と「心(しん)」についての解説も中々圧巻。


「この皮は今は鳴らない、鼓を毎日打ち続けて五十年たてば鳴り始める。いったん鳴り始めたら六百年は使える」とか。又わざと簡単に音が鳴らないように作ってあるかのようにみえる能管の話とか。ちなみに例えば35歳の方はその皮を買ってなり始めるのは85才。その年まで生きる保証はない。能の世界はそんな世界。今ここに道具が存在していたら、たとえ自分が鳴らすことができなくても、他の誰かがいい音を鳴らすために受け継いでいく・・そこに価値がある、そういう世界。自分の代で何かを完成させようなどとは誰もこれっぼっちも思っていない。でも毎日ならない道具で練習し、ひたすら蓄積する。自分のしていることが誰にも受け継がれないかもしれない可能性もある。それでも能全体にとって何かの蓄積になるに違いないと確信している人たち。それが能の世界に生きる人たちの基本的な心の持ち方であるとか。ここには個人という考え方も感覚もないのではないか・・個人、そういう意識を持ったら能はやっていけないのだろう。


「能を観るというのは生きるということを見直すための場所にでかけるということ」と言い切る。
多くの束縛の中でも時間という枠組みから解き放され日常と全く違う世界に身を置くことができるから…思いが風景に流れ出し、心も体も風景も全て混然一体になる・・・それが最初の地謡とか。


こんな調子で赤線一杯〜・・・勿論その一つ一つを説明し読者に納得してもらうべく日本書紀が出てきたり、古事記が出てきたり、古代ヘブライ語古代ギリシャ語が登場したり、中国古代哲学まで随所に出てくる。万葉集の和歌も芭蕉の句も縦横無尽にこの本の中では時空を超えて登場する。(笑)

私の下手な文など何の役にも立たない。是非興味のある方は一読を。


ちなみに色々ここ何か月悩んでいた琵琶に関して…
この方の本を読み、能に生きる方々の生きる姿勢を知るにつけ、
「私って何てちっちゃあい〜」と赤面もの。



・・・・・年をとっても「花」を保つことです・・・・


と言われる。
風姿花伝の中にも似たような言葉。
「住する所なきを、まづ花と知るべし」と。
老いても立ち止まらないのが「花」だと。
千利休の言葉にもあったかも。切り口は若干違うのだけれども、
「詫びだのさびだのいうと人は地味でさえあればいいと思っている。地味なだけではだめだ。その中に艶がないと。」と。

体も動かず、声にも張りがなくなる、でも老いてこそ芸の神髄が発揮できるはず・・たとえ自分一代でどうにもならないものであっても、必ず次の世代、その次の世代の礎になるはずと信じて励む能関係の人たちの姿は人間としてスケールが壮大。

能役者さんたちを今日からはわが師としよう。
大らかにこの世のあわいの中で実らぬまでも精一杯今を生きていけることに感謝して、今あるこの存在を楽しんでそして黙々と努力していこうと思った次第。


ありがとう・・・・頑張ります。今日から又一歩ずつ。