和装組曲♪

・・着付け教室、琵琶演奏、能面制作などに勤しむ日々のあれこれをグダグダと綴ります・・

小栗栖(おぐるす)

加茂の河原に風立つや  
五月雨空の迷ひ雲 
廻る宿世の悪因に    
雄図(ゆうと)空しく亢龍(こうりゅう)の 
悔に終わるぞ是非もなき 


琵琶曲「小栗栖」(おぐるす)の謡い出しである。
今年、練習し始めた曲なのだが謡い出しから物凄く好きである。


天正十年水無月十三日 
明智日向守光秀は 
羽柴の勢をむかへうつ 
山崎表の合戦に
脆くも敗れ勝龍寺へ 
わずかに身をもて遁れしが

と続く。

今回吹田市重要文化財の「旧西尾家」を見に行くことを決めてから心に固く決めていた。
その時を利用して京都へ廻り何としても本能寺から光秀の殺されるまでの後を辿って来たいと考えていた。
自分が謡う時にはイメージがつかめた方が良いに決まっている。特にこの歌は最初からあらゆる点で物凄く気にいっていた。
光秀という題材も頗る良い、歌詞が無駄がない、しかも此処彼方にしみじみした哀愁がある。心に迫ってくる陰影もある。人の運命というものを軽々に扱ってないのもいい。又大仰な悲哀や誇張した表現もほとんどない。だから自分の心にバンバン響いてくるのだ。いつかこの曲は自分の持ち歌になるに違いない。それほど気にいっていた。何とか時間をやり繰りして小栗栖だけでも行きたかった。叶う事なら大津までも行きたかった。

旧西尾家見学の翌日・・・
残念ながらその日は朝から雨だった。
止みそうな雰囲気はない。一方私は着物で草履のいで立ち。
・・・其の日私が選んだ着物も「薄墨桜の角通しの江戸小紋
帯は名古屋帯で散り始めた実物大の花びら七枚。
お太鼓柄には「水なき空に波ぞただよふ」紀貫之の最終句。
知り合いの書家の方に物凄く薄く品よく書いてもらう。
桜が咲く前に桜散る図柄は野暮である、かといって桜が散り始めてから着るのは更に野暮の極みである。
実際の散り際の美しさは本物に勝るものはないのだから。
渋いが桜の満開のこの時期しか着られぬ。

気持ちの上で散って行く桜の花と光秀の短い最後を重ね合わせてもいた。
折しもホテルのエントランスホールには見事な桜の生花。
正に私の為に生けられたのね〜ありがとう。
勘違い人生をまっしぐら。(笑)
そう・・・私は何時でも自分の都合のよいように勘違いをして生きている…

金沢にいた時から「雨かも・・・」という不安もなくはなかったが、それでも明智藪の雰囲気を掴むには着物以外の選択肢はなかった。
だからあえて洋服も靴も荷物の中には入れなかった。
静かなる決意表明。
前日は観光地やホテルにはレンタルの着物を着ているアジア系の方々が一杯あふれ返っていた。
なのにこの日のそぼふる雨に道中流石に着物姿は私以外ただの1人もいなかった。
「降るなら降れ!!」土砂降りでも負けやせんがな!!
どうでもよいことに直ぐ剥きになるから何時でも心は疲れている〜・・・・(笑)

話を戻そう…ドンドンそれていく。



明智光秀・・・信長を討って思いを遂げたのに十数日で自ら討たれて散って行った武将だ。


きっとここで突っ込みを入れる方がいるはず。

     光秀は小栗栖では死んでないぞ〜
     家康のバック「天海」だと言われているぞ〜
     春日の局は光秀ゆかりの人だしね・・・
     家光の光は光秀からとったんやで〜
     光秀は確かに生きていた…今はそれが主流・・・
     ちと古いよ婆さん・・

と。突っ込み・・ありがとう。
歴史学者や歴史愛好家の方々のいろんな意見は承知。案外本当にそうだったかも…とも思う。
研究者は一つ一つ証拠を提示しながら証明していなさる。
一つ一つ読んでいくと確かにその後の歴史の中の不可解な事の多くが、光秀生存していたとすれば氷解するとのこと。
琵琶の曲にも出てくる殉死したはずの「進士」「比田」の両名が生きていたとの史実も実際あるとか。
溝尾庄兵衛が光秀の首を何故すぐ見つかる所にしかも泥田に付けて汚して炎天にさらし早く腐らせたのか・・とか。
中々紛糾する話ではある。

しかし・・・・しかし・・・・琵琶の曲は琵琶の曲である。
ここはそれに従うことにする。色々考えぬことだ。
いつも考えなしに行動する私がたまに考えると碌な事がない。

迷走し紛糾し真実に迫るのは学問をする方に任せる…
で・・・あるからして、私は私。
私も雨でぬかるむ道などでひるむわけにもいかぬ。
(物凄く大げさな私、何事も琵琶の為だ・・・・笑・・・しかしその日の気持ちはまさにそうだった。)

まずは本能寺・・

提灯の紋は左「結び雁金」と右「鶴丸

丁度信長の遺品展を開催中だった。これも本当に偶然である。
肖像画もさることながら兜や種種の書状、霰釜、天目茶碗など・・数々。
霰釜は本能寺の変の前日使用されたものとか。
写真撮影禁止なのでお見せできないのだが、撮影を許可された信長の鎧のレプリカがあった。
もっとも本能寺の変の時は鎧を纏う暇はない。

本能寺は以前建立された所で炎上した後、何度か火災に遭遇。
で新しく場所を移して建てられたとか。その時に字を変えたらしい。

「能」の右のつくりが「ヒ」「ヒ」と「火」の音が二つ。
で・・・新しく使われた字が「去」と言う字。
ちらっと見には「能」に見えなくもない。

そんな係りの人の説明に「ほ〜」「へ〜」「ひ〜」と頷く。

光秀は秀吉との山崎で合戦するが大敗。

     
       主従僅かに十三騎 
      心細道闇を縫い 
      坂本指して落ちて行く

      静けき夜半の川端を
      北に渡りて桂川

山崎は桜見物と「マツサン」効果でものすごい渋滞とか。今回はスル―するぅ〜(笑)
大津の坂本城を目指して桂川を渡って逃げ延びるのだがその時に通ったのが「小栗栖」村だと言われている。


       河鹿の声やせせらぎに
      蹄(ひずめ)の音を紛らせつ 
      忍び行く身はさなきだに
      一陣渡る松風も

      追手の声かと疑われ
      闇をすかせば遠近の
      水田にささやき群居たる

      伏勢ならぬかもめにも
      胸をどらせつ峠路を 
      早打越えてうづら鳴く
      小栗栖の辺にさしかかる



ここで竹やぶの中から村人の長兵衛に竹槍で突かれ瀕死の重傷を負い、光秀は最終的には家来の溝尾庄兵衛に首を討たせる。


この「小栗栖」のいわゆる「明智藪」と言うのを見たかった。


        叢(むら)立つ竹の繁みより 
       小栗栖村の長兵衛が
       さっと突き出す竹槍は
       運の極みか光秀の
       脇腹深く貫きぬ 



一面竹藪であった。
此処を案内して下さった方が言われるにはこの竹やぶで竹を切ったり分け入ったりした者は原因不明の熱が出たり、大けがしたり、死んだりしたそうな。
それ故長い間誰も近寄らぬ場所であったとか・・・今ではお寺がポツンと立っていた。「明智藪」は有名な心霊スポットらしい。
「何十年もこの仕事をしてきたが、此処を見たいと遥々訪ねてきた人はあんたで二人目だ」と。
1人目はどんな人だろう・・・気にはなるが要らぬ詮索はしないでおこう。
マニアックな場所も場所だが、そう・・・ちょっと確かに怖い場所なのだ。
写真を撮っていても何となくいやーな感じがした。
更に此の場所に来る時には事故が多いと言う、いわば更に強い心霊スポットなるトンネルを通らないといけない。
沢山の墓が立ち並び、山にも人骨が数多く埋められている場所にトンネルを開通させたとか…物凄い事故多発に結局最後は人骨を集めて供養したらしい。
そのトンネルの場所は大昔の人骨の捨て場でもあったらしいのだ。
「え・・・っ〜!!!そんな話聞かさんで!!!教えてもらってもちっとも嬉しくないがな。うなされそう〜」



最後は大津市坂本にある西教寺・・・

車から降りるにはちょっと雨足が強いので門の撮影は車中から失礼した。
丁度翌日に大法会があるらしく寺には出入りする人通りも多く幕が掛けられていた。

光秀一族が祀られている。
庭園は小堀遠州の作。

写真がアップできる枚数だけ・・・どうぞご覧あれ〜♪

       順逆無二門
      大道徹心源
      五十五年夢
      覚来帰一元

  琵琶の曲にもこの辞世の漢詩が出てくるのだが非常に難しい漢詩であるのと節回しが物凄く困難である。
  謡うのが実に難儀である。 師匠曰く「漢詩だけでもすんなり謡うには覚悟がいるよ」と。確かに。
  立て札の説明の書くところによれば次のような意味になっている。
    
    修行の道には順縁と逆縁の二つの道がある。
    しかし実は二つではなく一つの門である。
    順境も逆境も実は一つで究極の所
    人間の心の源に達する大道である。
    而して我が五十五年の人生の夢も
    覚めてみれば全て一元に帰る。



人気の少ない桜並木の境内を通りこの辞世の歌を繰り返し口づさみながら京都に急ぐ私。
勿論、帰りはあの怖いトンネルを通らず別ルート。話を聞いた後でもう一度挑戦する勇気はなかった。

駄目なのよね…怖い話は。根が物凄く小心者。怖がり。暫く尾を引きそうである。
恐ろしい数のずらりと並ぶお墓、トンネル、そして何処までも広がるくらーい竹やぶ・・・

中でも竹やぶのさわさわと揺れる音が何だか何人もの話声に聞こえたりもする。
・・・・やめて・・・・・お願い・・・・私に取りつかないで〜・・・・
ホテルへ帰って来ても暫く脳裏に浮かぶ。


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今日のお気に入りの一枚はこれ。
西教寺から見た琵琶湖の景色・・
この日でないと琵琶湖を見渡せるこの場所にこの幕は掛からないのだ。

地元の方らしき親子と期せずしてこの風景を見る。
「光秀さんの仁政は有名。坂本の方々は物凄く慕っていますよ、今でも悪く言う人は1人もいない・・」とポツリ。
信長の比叡山焼き討ちの巻き添えを食ったりしても光秀はこの寺の復興に本当に尽力したらしい。
明智光秀一族を供養するこの寺は秀吉の不興をかい、何度か急襲を受けるがいつも猿に助けられ何時しか猿はこの寺の守り神となっていったようである。






        嗚呼今孔明と謡われし 
       明智惟任将軍が 
       定めの程も短か夜や
       天定まりて是非もなく
       因果は廻る小栗栖の
       草葉の露とぞ消えにける
 

            (文中の琵琶曲「小栗栖」の歌詞は二瓶菊水・作より一部抜粋 
                  変換できない漢字は現代使いに変えて有る。)



   
    琵琶湖を望む比叡の山懐に抱かれ
        静に眠る明智家の方々に思いを馳せてきた・・・・