十二単は以前ご紹介したが、今回は知っているようで案外知らない束帯姿。
HPにはキチンと最初からの着せつけ順序どおりの写真を載せるべく今調整しています。4〜5日お待ちください。
このブログでは簡単にご紹介しておきますね。
金沢駅からサンダーバードで一路京都へ。
勿論和装組曲の養成コースの面々はアカデミックな方々ばかり。
電車に乗ると早速資料をだして予習に余念がない。
一から皆習うほど当日は時間もなく、基本の事や各名称位は事前準備してあるにはある。
日本の衣服と言うのは中国の影響を非常に強く受けていたのは「高松塚古墳」の「飛鳥美人」からも良くご承知のことだと。
遣唐使が廃止された以後は大陸文化の影響を残しながらも日本の風土に合った物に変化していった。平安時代はまさにこれ・・・
大陸の影響の強い身幅、そで幅の広いゆったりとした衣装がドンドン、日本独自の和風文化を色濃く取り入れていく。色を重ねて季節感を表現した十二単も以前少しふれたが、実は男性用の衣装も色々な種類が出てくるときでもある。
正に権威を象徴した衣装の典型的なペースとなった時代でもある。
今回は男性用の身分による衣服の中で
束帯・衣冠・直衣・狩衣・水干・直垂・大紋・素襖・肩衣長袴
など沢山ある中で平安時代に一番格式のあるものとしての衣装束帯の着せつけを見てきた。いわゆる女性では十二単に匹敵するような格式のある衣装といえようか・・・
(微妙な違いはあるにはあるのだがそれを言うとここではややこしくなるのでわかりやすい形としてそうしておく。)
講義&解説は衣紋道高倉流京都道場会頭 熊谷宝子さま。
前回の十二単と同じ方。
準備もこのように・・・ただ十二単と違い男性の場合はちょっと量が少ない。
本日の男性モデル・・・
衣紋者二人。
モデルの写真のいでたちは
小袖→襪(しとうず)→冠
である。襪(しとうず)というのは今でいう足袋。
今のように「こはぜ」がついたのは江戸、元禄時と言われているのだが
平安時代はこんな感じ。紐で結んだ。
色々な書物で絵で見たり解説を読んだりしてはいても
まさに「百聞は一見にしかず」。
この後、順番に言うと
→大口袴→表袴(うえのはかな)→単→袙(あこめ)→
下襲(したがさね)・裾(きょ)→袍(ほう)→石帯→平緒
→太刀→檜扇・帖紙(たとう)→笏(しゃく)→鞾(かのくつ)
二つの紅白の袴をどう着せつけたのか、
下襲(したがさね)・裾(きょ)をどう身体に添わせたのか、
石帯・・これがどういう役割を果たすのか、
太刀をどう安定させたのか・・・実際マジかで見せてもらい感動。
「ほお〜」「ああ〜」「なるほど〜」「そうなんやね〜」皆から声が漏れる。
片足立てて着せつけている。
正式にはこの衣紋者の方々は男性のはずだから、所作も男性的になる。
偶々今回女性たちが男性役で着せつけされているが
では平安時代、帝の着せつけは男性かというといつもそうではなかったらしい。
正式な場合は勿論男性だが、日常の着せつけは女性が担当になることもある。
そういう係りの方を「更衣」(こうい)という。
源氏物語で「桐壷の更衣」はまさに帝の衣装の着せつけ担当の方・・だったので
同じ側室でも中宮や女御にくらべ明らかに身分が低かった・・・というのはそういうわけである。
それはさておきこの時のモデルの方の冠を「垂纓」(すいえい)という。
後ろに垂れている。帝の冠は「立纓」(りゅうえい)といい帝以外はつけられない。
こんな話をしだすと今日のブログ・・・何処までも続くのでこれはここまで。
間のきせつけは抜かして、出来上がり。
間の一つ一つのきせつけはとても丁寧に見る事が出来たのだがそれは和装組曲のHPで今調整中。
実際着せつけた「袍」(ほう)はこんな感じの物。
着てしまうとこうなる。
十二単にも勝るとも劣らない・・・
男性の束帯姿、実に堂々と格好いい〜
和装組曲のHPで詳しく履歴として載せますのでお待ちください。